避妊用ピルと性教育の現場
厚生労働省が、低用量ビルを避妊薬として初めて認可し、発売も開始されましたが、学校など性教育の
現場や、生徒や学生たちにはどのように受け止められているのでしょうか?
ピルについて教師はもちろん、高校生でも大学生でも「飲めば妊娠しない薬」ということくらいは知っているけれども、飲むとなぜ妊娠しないのか、その理由とか仕組みについて、きちんと理解している人はまだまだ少ないと思います。ピルについて話したときに、男子で[ピルはセックスの前に飲めばいいと思っていた」というのがたくさありました。
一部の専門家や関係者にとってはピルの話はもううんざりというくらいなのでしょうけれども、一般にはあまりというよりもほとんど正しく伝わっていないと思います。
それから、反応として非常に多いのは副作用に対する不安ですね。マスコミ報道の影響や、中・高用量のピルを飲んでいた人の話を聞いたりしてのことだと思いますが、「ピルは副作用があるから怖い」という図式が浸透している。今回認可された低用量ピルと、従来の中・高用量ピルの違いについても知らないですね。
ですから、「副作用が怖いので認可されても飲まない」という女子学生や、「自分の彼女に飲ませるつもりはない」という男子学生の意見も随分あります。もちろん、そういう選択も結構ですが、しかしそれが誤解や思い込みによるものだとしたら、せっかくの貴重な選択肢の一つを初めから失うわけですからね。
ピルを飲むにしろ、飲まないにしろ、正確な情報を得て選択できるように、僕の授業でもていねいにやらないと駄目だなと思っています。
懸念されるのは、ピルを飲んで何らかのトラブルが起こった場合に、それが医者の説明不足によるものだったとしても、「だからピルは怖い」というふうにすり替えられてしまう危険性ですね。例えばピルを飲むとむかつきなどがあっても、一般には二〜三ヵ月経つとなくなるとか、三五歳以上で一日一五木以上のタバコを吸うヘビースモーカーはピルを飲んではいけないとか、ピルの飲み方についてはもちろん、そのメリットと副作用に関して、正確で十分な情報を広めることが問われてくると思います。
日本は今回、低用量ピルが認可されるまで、長い間、国連加盟国中ただ一国だけピルを認可していなかったという意味で、避妊後進国とも呼ばれていたわけですが、若者を含めて避妊に対する一般の意識はどうなのでしょうか?
一つには、どうしても避妊しなければ、と本気で考える危機感というか切迫感のようなものが一般的には緩いような気がしますよ。「妊娠しても中絶すればいい」という思いがどこかにあると思う。そのことが良いか悪いかは別として。それと、全体的に、セックスに対して熱心ではないということがあるんじやないでしょうか。例えば若い女性の場合でも、セックスは男のためにする、みたいなところがいまだにあります。
むしろ、多くの若者は「妊娠の可能性を考えもしない」のが実態ではないかという気がしますが。とくに女性の場合、中絶すればいいと思ってセックスする人はほとんどいないのではないでしょうか。ただ、男のためというよりも男の人に好かれるためにセックスする、というのはたしかにあるかもしれませんね。
彼のためにピルを飲む、という人もいますから。若い女性で。
「私は妊娠しないという安心感の中で、もっとセックスを楽しみたい」ということでは必ずしもないようです。欧米の女性たちがピルを避妊法として選んできたのは、避妊を相手任せでなく、自分の手に獲得して確実に行いたいということと同時に、自分も安心してセックスを楽しみたい、という主体者意識というものがあると思うんです。例えばコンドームだけに頼る避妊だと「急いで射精してペニスを外へ」というように、射精中心の男中心の慌ただしいセックスになりかねない。そうすれば、女性は取り残されてしまいますよね。
つまり、性の権利としての避妊ということでしょうね。ヨーロッパでも、進んだ性教育をしているデンマークなどでは、避妊は権利として教えられていると聞きますが、「個人には望まない妊娠の心配をせずに性を楽しむ権利がある」という認識があるから、避妊は権利とすっきり言えるんだと思います。「望まない妊娠を防ぐ」というだけでなく、「性を楽しむ」という意味も含めて「性の権利としての避妊」というわけですね。
日本の人はそういう意識がとても薄い感じがします。やばいことになっちやまずいから避妊しようという、そういうレベルの意識のように思います。
そもそも日本は、自分をはっきり主張することを歓迎しない社会で、「世間」というあいまいな物差しがいまだに力を持っています。そういう状況の中では、主体者意識も希薄になりがちです。これは「性」や「避妊」に限ったことではなく、根が深い問題ですね。
「中絶」は教えても「避妊」を教えない性教育
学校の性教育の中では「避妊」はどのように教えられているのですか?
学校現場では、どこでも共通に、そして性教育の前提として、一〇代はもちろん、結婚前の男女関係の中で性行為があることは望ましくない、という考え方がいまだにあると思います。たとえそれが建前だとしても。だから中絶については教えても、避妊はしっかり教えない。ピルについて、学校の教師にアンケートをとったら「とくに必要ではない」という声が多いんじやないですか。高校生がセックスをするということを、ありえることと思いたくないというのが根底にあると思います。
別に奨励する必要はないわけですが、実際には10代の性体験は急増していますよね。一九九九年七月に発表された東京都の高校生を対象にした調査(東京都幼稚園・小・中・高・心障性教育研究会調査)を見ても、性交経験率は男女とも高校生になって急増し、高校三年生の約四割は「経験あり」と答えていますね。とくに女性の場合は、高校生になると経験率が飛躍的に増えます。ところが、「いつも避妊する」と答えたのは男女とも二〇%台と低いんですね。こういう実態を見ると、男女平等や女性の人権を基本に置いた性教育において避妊の問題は大きなテーマだと思いますが……。
その通りなんですが、そういう感覚は乏しいと思います。性教育にかかわっている人間としては、学校での性教育を前向きに進めていくために、また自己決定権や女性の性的主体性というものを考えていくうえで、ピルを含めた避妊の問題はポジティブに扱っていけるテーマだと思いますが、そう考えている人は残念ながらまだ少数派ですね。
セックスに対するネガティブな姿勢があるから?
その通りです。
とくに女性の性に対してですよね。私たちの社会の根っこには、男には甘く、女には抑圧的な「性の二重基準」がまだまだありますから。ピル承認にはI〇年以上もかかったのに、バイアグラはたった半年で承認されてしまった。これは、性の二重基準を象徴していると思います。
もちろん、そうですね。その意味で、子どもの実態と大人の意識がどんどん離れていく。例えば、親たちからもピルや避妊について教えることをよしとしない、そんなことはしなくていいという声が出てくると思う。だからピルの認可によって、教育現場には、また新たに取り組まなければならない大きな課題が出てきたということになります。
どういう点が一番テーマになりますか?
結局、セックスって何なんだと、そういうところに立ち返ると思うんですね。望まない妊娠や性感染症の不安がありながら、人は何のためにセックスをするのか。そうすると、生きることや生活を楽しむというところからセックスを考えることが、ピルや避妊を考えるうえで不可欠になると思っています。日本の大人たちの言うことには建前と本音があって、少なくとも大人になって、できれば結婚して、妊娠しても構わないという状態であればセックスしていいという建前がある。そこにおいては避妊の確実性ということは、必ずしも深刻なテーマにならないわけです。
しかし、10代の性はそういった前提には当てはまらない場合がほとんどで、その意味で避妊はきわめて重要なテーマになってくる。それについてこれまではコンドームしかなかったわけですが、避妊の教育が十分なされていないこともあって、ちゃんと使わなかったり、使い方が不十分なために失敗することが多かったわけですね。これからは、そこにピルという選択肢が増えるわけで、一〇代が避妊について正しい情報を得るという点で、ますますちゃんとした避妊教育が必要になってきます。
もっとも、一〇代で性経験はあっても、大人のように結婚や同棲やステディな関係ではなく、それほど頻繁にセックスをするわけではない状態で、ピルを飲むことがどうかという問題ももちろんあると思います。だとしたら一体どうしたらいいのか。そうしたことも含めて、避妊について、セックスについて、中学生や高校生に話をしなくてはいけないと思います。
それは成人の女性でも同じです。月に一度くらいしかセックスしないのに毎日飲むのは不合理なのではないかと。基本的には個別の状況によって、当人が選ぶことだと思いますが、その前提として、自己決定するための十分な情報提供が必要です。人間の性行動が生殖だけを目的とするものではなくて、互いのコミュニケーションと生きる歓びを分かち合うということだとすれば、避妊は欠かせないこととして位置づけられるわけですが、教室でそのような語り方ができる教師はまだ建前としてはやはり、セックス=結婚であり、結婚=子どもを産むという意味において「正
当」である、というモラルがあるんですよ。結婚してちゃんと子どもを産んでいい状況になるまで
はセックスに近づくべきではないという……。
ところが、そこがまた現実との乖離が起きていて、実際には晩婚化が進んでいて、平均結婚年齢は女二六・六歳、男二八・五歳(一九九七年)と上がっています。一九七〇年代には二〇代後半の女性のハ割、男性の約五割が結婚していたけれど、いまではそれぞれ約五割、三割と減っています。生涯未婚率(五〇歳のときの未婚率)も少しずつ増えています(女五・二%、男九こ%)。
つまり、結婚も人生の選択肢のIつというふうに考えが変わってきているんだと思います。その意味で、「未婚」という言い方も適当ではないなと思っています。結婚すべきという考えが前提にありますから。だから結婚にこだわって性をとらえていると、ますます現実との矛盾が大きくなっていってしまう。
学校というところは一般的にいえば、いろいろなことに対して保守的で、変化に対して慎重である、ということは一面で是認すべきことと思いますが、このセクシュアリティについていえば.
あまりにも現実と違いすぎてきていますね。
現状維持?
維持するといっても現状そのものの把握が正しく行われていませんから後ろ向きの役割
を果たすことになっていますね。その中心のIつが、セックス=結婚という考え方。もう一方は、性の二重基準、ダブル・スタンダードです。
女性が避妊の心配をせずにセックスを楽しんだり、性に対して能動的なのを望ましいと思わないというような……。これなどもはや、ジェンダー・バイアス(性別による偏見)を通り越して性差別というべきでしょう。マスターベーション(セルフ・プレジャー)についても、男は仕方ないが、女性については触れない、無視するというように、性に関して心地よさや「快」を卑しむという考え方があると思う。
ただ昔から日本人がそうだったわけではないようですね。江戸時代くらいまで、性に関してはもっとおおらかだったようで、儒教とかキリスト教など性に抑圧的な外来文化が入ってきたり、また明治以降、近代国家の体裁を整える過程で、性モラルの管理が強まって、今のような規範がつくられてきたのではないでしょうか。
その通りです。家父長制と男尊女卑と純潔思想で「近代」を装ったんですね。かなり強引に。
そのために学校も大きな役割を果たしました。そうした中で、産むことと結びつかない性は後ろめたいという価値観が強まった………
それも、ちゃんと結婚したカップルによる性行為でないといけない。そして、産むことにつながらない性が処罰の対象にされてしまった。どんな理由があっても中絶を認めない堕胎罪のことです。堕胎罪は、明治時代にキリスト教圏のドイツやフランスから輸入されたもので、違反した女性と手術をした者は投獄されます。堕胎罪は、なんと制定から100年以上たった現在もそのまま残っているので、女性の間から廃止すべきという声が上がっています。
「産む」ということのみにおいて性が正当化されているわけだから、避妊や中絶といった「産まない」選択はますます否定され、隠されてし孝つわけですね。
その一方で、日本では一般的に性に関することは風俗的にとらえられることのほうが多くて、マスコミなどでも、外国に比べて避妊のことが真面目に問題にされることが少ない。ピルについても、きちんとした情報が流されず、風俗ネタとして面白おかしく扱われないかと心配です。だからこそ、教育の役割は大きいのではないでしょうか?
そうなのですが、少なくとも今現在、大人でも、避妊に関して本気で「困った」と考えている人はあまりいないのではないでしょうか。実際には望まない妊娠が少なくないのにもかかわらず。
毎日新聞社人口問題調査会が、一年おきに「全国家族計画世論調査」を行っています。その一九九八年の結果を見ると、「なぜピルを飲みたくないか」という設問に対する答えの第一位は「副作用」なのですが、第二位が「今ある方法で十分」というものなんてすね。
これは、一つには他の避妊法を知らないためだと思いますが、あまり変革を望まない日本人の特質が現われているようにも思えます。それにしても、性や避妊に関して、人々は保守的で、それを変えるにはものすごくエネルギーがいるのだと痛感させられます。
もっと避妊について、セックスの質、愛情の質、そういうものを高めていくという視点があっていいと思いますね。確実な避妊法と安全な中絶が保障されることで初めて、性の場面で男と女は対等にかかわり合う条件を得るわけです。その意味で、僕は授業では望まない妊娠や中絶など、やばいことにならないように、というだけではネガティブだと思うので、もっとポジティブに考えていきたいと思っています。
それはとてもいい言葉ですね。ピルは避妊薬の一つでしかないという言い方もできますが、同時にこれ自体が教育の媒体になり得ると思うんです。それにピルが認可されたことによって、いろいろな問題提起がなされていくと思うのですが、ピルという石が投げられたことによって起きた波紋をいかに活用できるかということは、私たちにとって大きなチャレンジだと思います。
ピルの副作用は怖い?
先ほどもお話に出たように、多くの人がピルについて心配しているのがやはり副作用の問題です。ピルのメカニズムや副作用、使用法など具体的なことは前半の「基礎知識編」のところにも詳しく解説してありますが、ピルも含めて避妊法にはそれぞれメリットとデメリットがあるわけで、その情報の提供の仕方がとても重要だと思います。いまのところ、まだ情報がとても混乱しているよう
に思えるのですが・・・
どういう副作用があるか、どのように注意して使えぱよいか具体的に知らずに、何となく怖い薬だと思っている人が多いですよね。それは先ほどいったようにメディアの責任がすごく大きいと思います。ピルに関しては不正確なだけでなく、センセーショナルに取り上げられることも多く、バランスの悪い報道が目につきます。
学校教育や公的サービスの中で情報提供されなければ、情報源がメディアだけになってしまうわけですね。いくつかの調査でも、一〇代、二〇代の若者の性や避妊に関する情報源の多くは相変わらず「雑誌」です。
ピルの副作用について、理解しておくべきポイントとはどのようなことですか?
どの薬もそうであるように、ピルも薬である以上、副作用はあります。ただ副作用というのは個人差があり、人によって出方が異なります。まったく副作用が出ない人もいれば、軽い副作用が出る人、多少出ても飲んでいるうちに消える人などさまざまです。また、体質や病気によっては重い副作用が出る恐れがあるために、飲んではいけない人、飲むとしても常に医師にアドバイスをもらいながら慎重に飲んだほうがいい人がいます。ピルが薬局で市販されず、医師による処方が必要だというのは、その人の体の状態をチェックして安全に使うためなんてすね。
例えばタバコを吸う人は、ピルを飲むと血栓症のリスクが高まるので、タバコを吸うならピルを飲まない、飲むならタバコをやめたほうがいいですし、すでに心臓が悪いとか、肝臓や腎臓が悪いという人もやめたほうがいい。最も重い副作用は血栓症なのですが、もし血栓症のリスク・ファクターの高い人が飲めば、発症する危険性も高くなりますし、まれではありますが、最悪の場合死亡するケースも報告されています。それは事前の情報や医師の説明不足が原因ですね。
もっとも、血栓症は妊娠中の発生率のほうがはるかに高いのです。ですから、望まない妊娠による身体的・精神的リスクと、ピルの副作用のリスクを考え合わせたうえで、ピルを飲むかどうか納得して選ぶことが必要だと思います。そのためには、少し面倒かもしれないけれど、医師に自分の体の状態を話して、インフォームド・コンセントのもとに必要な検査を受けてから飲むことが大切です。
*インフォームド・コンセント
十分に説明を受けたうえで納得して選ぶこと。
逆にいえば、ろくに説明や必要な検査もしないで安易にビルを出す医者は避けたほうがいいと思います。こういう手順を踏むことは、結局、自分の健康管理にもつながるんだ、という意識を持ってほしいですね。
こういう説明を受ければ「ああそうか」と納得しますね。
ピルを飲むと血液中の女性ホルモンの量が妊娠と似た状態になるので、例えば、副作用の1つとしてつわりのような症状が出る場合があります。でも、つわりが二〜三ヵ月くらいでなくなるそれはわかります。そういう科学や医療に対する考え方も、ピルを選ぶかどうかを決める要因になると思います。肝心なのは、選択の自由が保障されることですから、ピルを選ばないからといって、「遅れている」とかいうのは間違っている。それは押さえておかないといけませんね。
「ピル絶対論」みたいなものが出てくるのも困りますね。
ええ。あくまでも自分の考えや生き方によって自己決定するべきことですから、「自然に反するからピルを飲むな」とか、「ピルを飲まない女は自立していない」など、当事者以外の人間が価値観を押しつけるのはおかしいと思います。二つの立場は、正反対のように見えるけれども、「あなたには判断能力がないから、こちらが決めてあげる」というパターナリズムという意味で似ていますね。
*パターナリズム
干渉的な家父長的温情主義。
ピルで性感染症が増える?
ピルの認可が大幅に遅れた大きな理由の1つが、ピルを飲むようになるとコンドームの使用が減って、エイズが広がるのではないか、という懸念からでした。エイズも含めて性感染症(STD)が増えているといわれる現在、避妊とエイズ・STD教育をどのように考えたらいいのでしょうか?
産婦人科医や性感染症の専門医の話を聞くと、クラミジア感染症などSTDが非常に増加しているといいますね。ただ、それはピルが原因というより、ピルの使用率が非常に低い現状のもとで増加しているわけですから、ピル以前の問題なんですね。つまり、コンドームがちゃんと使われていないわけですよ。大学生に自分の避妊について書いてもらったものを見ても、セックスをし始めた頃は六割くらい使っているのが、だんだん慣れてくるに従って使う頻度が減ってくるんです。
緊張感がなくなって「大丈夫」と思うようになるらしい。
エイズやSTDに感染している人がコンドームを正しく使わずにセックスしたら、ピルを飲んでいようがいまいが感染の可能性があるわけで、避妊教育とは別に並行してエイズ・STD教育をしっかりやらなければならないと思います。
自分だけは妊娠しない、感染しないと思ってしまうんですね。
よく「ピルが認可されると男が避妊の責任を女性に押し付けてコンドームを使わなくなる」
といわれますが、授業でピルの話をしたとき、男子学生たちの反応は、「これでコンドームを着けなくてもいい」という感じではなく、「女性だけに負担をかけるのは僕はよくないと思います」とか、「彼女が飲んでも僕はコンドームを着けます」など、結構ちゃんとしたものでした。少々楽天的かもしれませんが、避妊とエイズ・STD予防の知識をきちんと教われば、ダブル・ダッチ・メソッドなど必要な場合はコンドームを併用するとか、自分で選択して適切に対処できると思いますね。
ダブル・ダッチ・メソッド
避妊にはピル、STD予防にはピルとコンドームの両方を併用すること。オランダの医師が提唱し、欧米で普及している方法。セックス・パートナーが一定しないなどSTDのリスクが高い場合に勧められる。万が一、コンドームが破損するなど使用を失敗しても、望まない妊娠は防げる。
そういう力と可能性を若い人たちは持っています。
今の若い世代は男性もだんだん変わってきていますね。
僕が授業の中で「女性がピルを飲む場合、相手が無責任にならないように、自分がピルを飲
んでいることを言わないほうがいいんじゃないか」と言ったら、男子学生の中の数人が「そういう言い方はない。嘘つきと同じじゃないか。自分も飲んでいるけれど、あなたも使ってと言うべきではないか」と僕を批判しました。世の中そういう男ばかりじゃないけれど、こんな反応が出ることはとてもいいことだと思いますね。男も変わってきているし、変わっていけると思います。ただ、その前提にあるのは、ちゃんと学習するということなんですね。
私もある会合で、若い男性が「彼女がピルを飲んでも、男の責任として僕はコンドームを使い続けます」と発言するのを聞き、時代は変わっているんだなあと感じたことがありました。こういう男性はもちろん少数派でしょうけれど、それでも将来が少し明るくなりますね。日本は避妊法のハ○%がコンドームと、世界でも異例にコンドームの普反率が高い国ですが、使うのは妊娠の危険がある期間で、安全期には使わないというやり方が一般的ですから、エイズ・STDの予防としてきわめて不十分です。そこが問題ですね。エイズ・STD感染の危険がある場合、コンドームはセックスのとき必ず使う、という教育が徹底されないといけませんね。
だから、セックスの相手が変わるとか相手を変えるときには必ず検査を受けるというモラルというかエチケット、マナーといったほうがいいかなと思いますが、そのことをどう指導できるかですね。僕の授業を聞いた後、カップルで検査に斤ったという学生が何人もいて、その結果、「安心しました」と言っていました。
感染していることがわかった場合も、そのことを相手に伝えるか伝えないか、これもまた重大な自己決定の問題だ、そしてそのことを相手に伝えて、そのために相手の人が去っていっても仕方がないんじやないか、しかし実際には相手の感染を知ったうえで、そのことを受け入れながら関係が深まっていく例もあるのだ、という話をしています。
そういうところまで話がいくと、エイズ・STDを自分の問題であると同時に、相手の人生と健康との関係にまで具体化して考えることができると思うんですね。自分の行為の結果の予測、予知、シミュレーションでしょうか。
そういう具体的な思考の積み重ねでしか予防できないわけですよね。
ピルにしてもHIVにしても、自分と相手の人生と健康の問題として理解するということが必要なんです。
それこそ教育現場に望みたいことですね。ピルを使う人が増えると、処方前に病院で検査を受ける機会が増えるため、今まで気づかなかった性感染症が発見されて表に出る数が増える可能性はあります。ただ、それだけ早く発見して治したりケアする機会が増えるということもできるわけで、今まで以上に性感染症の予防行動に結びつけることもできると思いますね。
教育の現場では、青年たちに包み隠さず、すべての情報を提供していくことが大事だと思います。例えば、エイズの問題だって、かつては悲惨な状況ばかり話題になっていましたが、今は治療方法も進歩して、完治はできないまでも慢性病としてとらえられるようになっていますよね。病気の怖さばかり強調するのではなくて、感染した人が困難さを抱えながらも、勉強したり、恋愛したり、結婚したり、子どもを育てたりしてエイズと共に社会の中で一緒に生きているんだ、いけるんだという情報を伝えることも、とても大切だと思います。
感染から身を守るのは大切ですが、個人の人権や選択を尊重しないで、社会防衛を一斉にすればいいみたいな感覚だけで語るのは差別のもとですよね。大体、日本のエイズ:干ャンペーンは一時はよく見かけましたが、薬害エイズ事件が一段落した後、トーンダウンしているのでは……。
全くその通りです。性教育で取り上げることも、ずっと少なくなっていると思いますね。
だから、ピルがエイズ・STDを拡大させるという議論は、予防対策をしていないことの裏返しとしての責任転嫁だと思うんです。ピル承認までのいきさつを見ると、とくに感染症専門家の間に「社会防衛」という考えが根強く感じられますね。個人よりも社会全体の利益を優先させる社会防衛には、排除の論理が潜んでいて、たしかに差別を生む危険があると思います。
先日、若いフランス人男性から聞いたことによれば、フランスでは学校のトイレや、ディスコなど若者の集まる場所のトイレにはコンドームの自動販売機が
置いてあるそうです。学校に置くことについては相当議論があったらしいのですが、本気で予防に
取り組むにはそのくらいしないと駄目だという結論になったわけですね。日本では掛け声ばかりで、
実際に必要な対策や効果的な実践というのが乏しいですね。
人間を信頼していないということが、どうも根底にあると思いますね。
まさにそうですね。だから、個人に自己決定させるなんて危なっかしくてとんでもない、ということになる。ところが困ったことに、市民の間にもいまだに「お上意識」があって、「私が決める」というより「決めてください」という姿勢が結構多い。一方には、その問題もあるように思います。
産まない選択″は不当に扱われている!
今回のピルの認可について僕が改めて思ったのは、ピルはこれまで世界中で、ものすごい数の女性たちが飲み続けてきているわけですよね。
現時点で九〇〇〇万人の女性が飲んでいるといわれています。
国によって処方の実情がどうなのか詳しくは知りませんが、その女性たちが定期的に病院などに行って薬をもらうという行動をしているとすれば、つまりそれだけ自分の体や性の問題について能動的、主体的だといえるわけで、そのことが実に新鮮な驚きでした。
九〇〇〇万の女性の中には途上国の女性もいて、途上国の場合は、国が人口抑制政策として
家族計画を推進しているところが多いですから、ピルを飲んでいる女性がすべて能動的、主体的な選択をしているとは、残念ながら一概にいえない状況はあります。ただ、人口政策を強く推し進めていない欧米では、個人の選択としてピルが位置づけられていて、学ぶことがいっぱいあります。
例えば、病院以外にも家族計画クリニックとか、ウイメンズセンター、思春期クリニックなど、名前はさまざまだけれど、気軽に、しかも安くサービスが受けられる場所がたくさんあります。
また、オランダやイギリスではホームドクター制度があって、家族が代々同じ医師に診てもらっている。娘に月経が来て、ボーフレンドができると、その子が生まれたときから診てもらっている
医師のところに、母親が連れていき、ピルの処方などをしてもらうということです。日本では産婦人科に行くというと、それだけでも気重に感じる女性が多いんですね。ましてや避妊の相談のために、病院に行くという習慣はほとんどありませんよね。だから、ピルが認可されたからといって飲む人が爆発的に増えるとは思いません。ピルは健康保険が適用されないので、お金もかかりますし。
検査料が一万円くらいで、薬代が月三〇〇〇円くらいといわれていますが、外国ではどうなのですか?
ヨーロッパではイギリスやフランスなどのように健康保険が適用されて、ピルを含めた避妊薬・器具がほぽ無料という国も少なくありませんし、アメリカは自由診療であっても、家族計画・避妊に対して国や州政府が家族計画クリニックなどに補助金を出したりするので、非常に安く入手できるチャンネルがあります。
実際問題としてティーンエイジャーがピルを飲みたいと思っても、まず経費の問題がネックになりますね。
フランスなどでは、ティーンエイジャーが家族計画クリニックに行くと、匿名のまま無料で避妊薬・器具の提供を受けることができるとか。お金がなくても避妊ができるわけですね。
望まない妊娠を防ぐために、社会的なシステムを持っている国が多くあるということですね。日本では、一〇代も含めて個人的に解決すべき問題とされて、社会的なサポートが全く不足しています。この夏、スウェーデンに行ってきましたが、青少年クリニックで避妊や中絶について相談をする場合、そのことは親に対しても秘密は守られる、といっていましたよ。日本にはそういう場所や機関がまずない。だから学校の養護教諭が、そうした生徒の悩みや秘密を受け止めて大変な思いをしています。
本当にそういう「場」が必要だと切実に思います。政府や国会議員には、ことあるごとに、
「体と性の相談所」のようなものを作って予算を付けてほしいと要求しているんですが、丁回に進展がないですね。スウェーデンの場合などは、個人には性や避妊について知る権利があるし、避妊は、とくに女性の健康を守るうえで必要なサービスなのだから、知る権利、サービスを得る権利を国が保障するのは当たり前だという発想が、政府にも国民の側にもあるんでしょうね。
日本の場合は、どうも統計が優先されていて、戦後、出生率がまだ高かったときは家族計画に力を入れたけれど、出生率が下がったら家族計画の予算はなくなってしまいました。避妊を女性の健康や権利としてとらえる視点が、いかに欠落しているかがよくわかります。
「産む」ほうについては、母親学級とか、訪問指導とか、不妊相談とか公的なサポートがありますよね。もう一方の「産まない」選択である避妊や中絶に関しては、サービスの対象から排除されて
います。
そう。女性にとっては、産むことも産まないことも同じ重みを持った選択なんだし、「産む・産まない・産めない」ということで女性の価値に優劣がつけられるなんて、とんでもないと思うんだけれど、男性中心の価値観では、産むことが一番価値があると思われている。だから私は、産まない選択って、本当にはまだ市民権を得ていないんじやないかと思うことがあるんです。もっとも産むほうも、出産に健康保険は適用されないし、産みたいときに産める環境が整備されていないという点では、問題がいっぱい残されていますけれどね。