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うつ病の原因を探れ
うつ病の治療期間はケースによってさまざまで、一概には言えません。しかし、一つの目安として、一年以内が勝負なのではないかと私は思います。それ以上長引くようであれば、長期戦を覚悟したほうがいいでしょう。
環境と薬は、立ち直るための重要な柱です。その二つをそろえて1年もたてば、回復しない自分の状態が不思議に思えてきます。回復を遅らせている原因の一つは「回復への焦り」。そして、もう一つは「回復の模倣」です。
次にあげたものが当てはまる場合は、まだ回復は期待できません。
①肩に力が入っている
②しかめた顔つき
③目線が落ち着かない
④ときどき一点を凝視して思いにふける
⑤他人の会話が自分の悪口に聞こえる
うつ病になったことは、本人にとって大きな負い目です。そして、その負い目や引け目に本人が振り回されていると、①〜⑤の傾向がよく見られます。
「どう調子は?」と聞かれると、つい「ええ、なんとか」と答えてしまう。回復に向かっていないのは外見からもわかるのに、本人はまだ、「頑張りが問題を解決する」と信じているので、あちこちに無理な「力み」が出てきます。周囲の願いも、本人の願いも、一日も早い回復です。だからつい回復を演じようとして、その無理が肩や顔つきにあらわれるのです。
また、口調が荒くなって、ときには人を傷つけるほど乱暴な言葉を吐いたりもします。それもただのカラ元気で、負い目を隠そうとする短絡的な発想から来ています。本人は元気に力強く振る舞うことが最善の策と思い込んでいますから、まわりの反応など気にもとめません。それどころか高圧的、反抗的ですらあり、おのずからしかめた顔になります。
そんな調子ですから、目線にも落ち着きやおだやかさがありません。かと思うと、時折、一点を凝視して固まる姿を見せることもあります。一見、策を弄しているようであり、際限なく自問自答に沈んでいるようでもあります。
こうした様子は、「うつ」の反対である「躁」的言動かもしれません。私自身、うつ状態を隠したり、打ち消す手段として、「躁」的に振る舞ったり演じることがありました。
このように、「うつ病の力」と「本人の意識」は相反しています。それは一本の棒を押し合いへし合いしているようでもあり、患者の無理やりな力を利用して、うつ病がさらに勢力を増していくようでもあります。
この悪循環や不毛に自分で気づいたり、誰かが教えてあげれば、患者の気持ちは切り替わって楽になるかもしれません。しかし、実際に本人が気づくのは難しく、またまわりからのアドバイスも、素直に受け入れられない場合が多いのです。
苦しみの中に何かがいる
「ストレスを発散することです。自分の好きなことをして、リフレッシユするのが何よりも大切です」
医師も健康番組のキャスターも異口同音にそう言います。
たしかにそのとおりですが、この段階にあって苦しんでいる人も、そんなことぐらい十分にわかっているのです。
川沿いを散策し、そよ風に吹かれて午後の紅茶を楽しんでみるとしましょう。緑の春風は、疲れたこころをやさしくなぜて癒してくれます。でも、そんな素敵な風景に身を置いていながら、なお苦しみ続けるのが、うつ病患者なのです。癒しの空間にあっても、頭の中ではうつ病の嵐が吹き荒れています。環境や時間、そして薬だけでは、楽になれないのです。どんなにおだやかな場所にいても、頭の中は過去の失敗や挫折、さげすみや軽蔑、非難や中傷などのシーンが、あることないこともひっくるめて、あらわれては消え、消えては甦ってくる精神錯乱の嵐なのです。
「振り返らなければいいじやない、楽しいことだけ考えれば」との言葉なのです。
治療をはじめて二年、うつ病が送り続ける苦痛で、私は発狂寸前の状態でした。
見えない何者かに神経を支配される、それが私の実感です。いま苦しんでいるあなたも、知覚しているのではないでしょうか。苦しみを送り続けている何かが、あな
たの中に存在するのを。
医師は回復の手助けをしてくれます。やさしい言葉であなたの様子をうかがいます。でも、そんな医師でさえ、うつ病の正体を見すえ、つかまえ、ひねりつぶしてはくれません。やはり、自分自身が闘うしかない。それには、まず苦悩の実感をつかまなければならない。
何がつらいのか、私は何に苦しんでいるのかと考えました。過ぎたこと、未解決なこと、悲しいこと、気分を悪くさせることなどが、私の頭とこころを締め上げ、絞り上げ、神経と思考を錯乱させていることが苦しかったのです。そして、それを単に「うつ病のつらさ」と言って片づけるのではなく、実体を感じようと思いました。
私の頭やこころ、神経がつながっているいくつもの臓器の陰に、健康なときにはあるはずもない不思議な臓器がある。ドクドクと脈打っているそれが、うつ病の苦悩製造機なのです。
その臓器は袋状になっていて、中をのぞいてみると「これまでに経験したさまざまな嫌なこと」で満たされ、渦巻いています。敗北のシーン、罵倒された言葉、思い出したくもない人の顔、恥をかいた場面、屈辱の数々が、悪臭を放ちながら脈打っているのです。それが私を苦しめ続けているうつ病の正体です。
健康な人には、突拍子もない思考に思われるかもしれませんが、私はこうしてうつ病を実体としてとらえ、向き合って対処することにしたのです。
うつ病は頑張って治る病気ではない
悪循環のメカニズムを自覚しても、苦しみを送り続けるうつ病のシステムは、あなたの意思が及ばない、別なモーメントで回り続けます。ここまで来れば、どんなに鈍い人でも観念するはずです。自分の信念やがんばりなどが、役に立たないことを。
治療をはじめてもよくなる気配はなく、気持ちは焦るばかり。むしろ、苦しみはより強くなっているという人。もう一度、助けを求めましょう。「がんばってきましたがもうダメです。治ってきたと思っていましたが、あまりにもしんどすぎます!」と、上司に訴えるのです。
短い期間でよいから入院したい、と告げてください。そうすれば治療に専念できます。遅くはありません。恥も外聞もかなぐり捨てて、仕事も一時棚上げにして、一日でも早い回復に全力を投じてください。入院するのが恥だなどと思っているのなら、そんな見栄も捨てることです。回復をよけいに遅らせるだけです。
私は治療中、入院も休職もしませんでした。でもそれは、仕事を休むほど重い症状ではなかったとか、がんばって持ちこたえたからではありません。人目を人一倍気にするあまり、病気に苦しむそのときでさえ、やせ我慢をしてしまったのです。
うつ病は、がんばるだけではどうにもならない。そう気づいたとき、上司に「すみません。一ヵ月ほど時間をください」と告げて、休養するべきだったと、いまでは思っています。
皮肉なことに、恥を覚悟で命乞いすることが、よい結果につながります。なぜなら、あなたがしがみついている虚飾のプライドから、あなたを引きずり降ろし、なりふりかまわず真っ裸になることが、結果としてあなたを楽にするからです。
つらさを訴えること、助けを求めることが、自分で思っているほど恥でも屈辱でもないことは、いずれわかります。
同僚との再会も苦痛の一因に
異動した福岡の職場で、こんなことがありました。
ある日、かつての同僚が来所するという内容のファックスを見ました。再会は実に二年ぶりです。相手は私について「環境が変わったことだし、元気になったころだろう」と思っているに違いないと、懐かしい再会のシナリオが自分の中でできあがっていました。
同僚が「やあ、元気そうだね」と握手を求めてくれば、私の筋書きどおり。でも、現実はそんなに甘くありません。
うつ病の人のみならず、こころを病んだ人に対する周囲の見方には、やはり偏見が含まれています。恐いものを見るような、差別するような目線、そして伝染性の病気ではないのに遠巻きにされている、冷ややかさを感じます。久しぶりの再会でも期待してはいけない、期待と実際は一致しないのを知るべきでした。
かつての同僚は、受付の案内で担当者や上司と挨拶をかわし、連れだって向こうの通路を歩いていきました。私とは言葉を交わすことなく、存在そのものに気づかずに帰っていきました。
来所の目的は仕事であり、私に会うための出張ではないのですから、それでよかったのです。でも哀しいかな、それでいいと思えないところが、うつ病患者のつらくてやっかいなところ。久しぶりの再会、笑って昔話の一つでもと、私は思っていたのです。
「あのときは大変だったね。その後どう? 元気そうじゃないか」
何日も前からそんな再会を思い描き、「飯でもどうか」と誘うつもりでした。
この一件で、私はつらくなりました。でも、現実を受け入れないと苦しみは倍加します。だから、こう考えて納得すればいいのです。
かつての同僚は、来所する前に私の回復具合を聞いていたのだろう。「あいつには、まだあちこちに無理が見える。感情の起伏も大きく、よいときとそうでないときの落差が大きい」「接触には、いましぱらくの時間が必要」といったアドバイスを受けてきたかもしれません。その同僚も、一日も早い回復を願ってくれていたに違いない。そうでないとしても、恨んではいけない。
当時の私は、そう思うにはもうしばらく時間が必要でした。
組織の中では、同僚は競争相手でもあります。相手の失敗や挫折が「蜜の昧」ということもあるでしょう。厳しい現実かもしれませんが、「そんなものなのだ。考えるのはやめにしよう」と思えなければ、うつ病は新たな巣を作りはじめます。
仲のよかった同僚であれば、近い将来、笑って再会できる日がきっと来る。私は、期待もほどほどにして、それを待つことにしました。
うつ病患者が栄養ドリンクを飲み続ける理由
うつ病の苦しみの真っただ中にあるときは、疲労感も相当なものです。
比較的楽な職場に配転され、定期的に医師にかかっていれば、それ以上の回復環境は望むべきもありません。三度の食事も取れているのであれば、栄養の面でも何ら問題はないはずです。それなのにやけに疲れる。医師によると倦怠感という、うつ病の症状の一つだそうです。
この疲労感、倦怠感をなんとかしたくて、私は栄養ドリンクをよく飲んでいました。福岡に移ってからは車で通勤していましたが、職場へ行く途中にあるコンビニで、値段も比較的高めのドリンクを買うのが習慣になっていました。香辛料の刺激的な口あたりが癖になり、その勢いを借りて玄関や職場のドアを、元気よく押す力としていたようです。毎朝、出勤時に車の中で一本。午後も、たまに自動販売機で買った「タフマン」のキャップをひねるときがありました。
飲んだ瞬間はその気になるのですが、夕方まで持続することはありません。栄養ドリンクは薬ではありませんから、はっきりと効果や効き目が確認できないのも当前です。やがて、気休めでしかないことを、あらためて納得して飲むのをやめましたが、私のように、うつ病による疲労感をまぎらわせるために常用しているという人は、注意したほうがいいでしょう。
元気が出なくても、眠たくても、それはそれで症状なのですから、受け入れるしかありません。栄養ドリンクやアルコールなどでの強制的な覚醒はしないでください。なにより無理はいけません。いまは治療の真っただ中、間違えば回復する前にあなたの神経が音を上げてしまいます。
《ポイント》
医師に相談して、薬と疲労感や倦怠感の因果関係をあらためて納得しておくことが必要です。そうすることで無用な不安、心配を遠ざけられます。治療薬は食後に服用するため、通勤途中や午後の時間に効果をあらわし、倦怠感も感じやすくなります。薬による脱力感や倦怠感であれば、とくに気にする必要はありません。だるさにかまけて腕を組み、昼食後のまどろみに身を任せればよいのです。
無理に気合いを入れたり、コーーヒーをがぶ飲みして活を入れたりするのは逆効果というもの。胃を壊すだけです。
それでも樵悴が気になる場合は、医師に相談して薬の量を減らすといった工夫が必要です。トローンとした目や締まりのない姿を、人前にさらしたくないという人もいるかもしれませんが、周囲の方には薬のせいで意識がもうろうとしていることを、あらかじめ知らせておくといいでしょう。「覇気がない!」と注意されたときも、そう説明するのが賢明です。よけいな心配をかけずにすむし、相手もあなたもずっと楽に振る舞えるはずです。
栄養ドリンクを口にした瞬間、なんとなく力が湧くような気がしても、それは錯覚です。無理矢理奮い立って、午後の仕事を乗り切ろうなどとしないでください。ドリンクヘの依存が長くなれば、過剰エネルギーとなり、成人病も呼び込みかねません。うつ病は糖尿病を引き起こす可能性があるともいわれています。
うつ病になりやすい性格
うつ病になる要因は、大まかに三つに分けられます。仕事での失敗や職場の人間関係、家庭不和といった、その人をとりまく状況や環境によるもの。悩みを抱え込みやすいとか、責任感が強い、プレッシャーに弱いといった本人の性格によるもの。
また、病気の治療のために投与された薬の作用で、うつ病の症状が起こる場合もあります。
私の場合は、大きな仕事に関わったという「環境」と、その中で自信を失ったり、問題を楽観的にとらえられないといった「性格」の要因が組み合わされたものでした。
本やホームページを見ても、真面目、几帳面、責任感が強い、完璧主義、理想主義、こだわりが強く融通がきかない、神経質、好き嫌いがはっきりしていて自己主張が強い、プレッシャーに弱い……といったものが、うつ病になりやすいタイプの性格としてあげられています。
きっかけはどうであれ、そうした性格の人がうつ病になりやすく、また回復を遅らせる一因となっているのなら、その性格を変えれぱよいのではないか。回復への焦りがピークになったころ、私はそんなことを考えました。そして、そもそも性格とはどのようにして形作られるのかと思い、早稲田大学教授の加藤締三氏の本にふれ、自分のことを考えはじめたのです。
自分の性格を変える?言うだけなら簡単です。しかし、育ってきた環境でつちかわれ、長年身につけてきた思考ですから、根強いものがあります。その性格がベースにあってこそ、いまの自分が支えられているのですから、一口にそれが悪いとはいえません。
それでも、考えてみてください。たとえ気分や体調がよくなったとしても、それは単なる回復です。病気になる前の状態に戻っただけのこと。元の状態に戻っただけなら、いつまた再発するかもしれない。それは新たな恐怖です。やはり、それまでの自分の性格、ものの考え方を変えることは必要なのです。
気の小ささが災いする
一向に回復しないもどかしさの中で苦しみ、うつ病になった原因を必死に考え続けた結果、私の性格が病気の原因であるとともに、回復を遅らせている一因であると気づきました。
徹底的に自分の性格と向き合ってみてわかったのは、一番の原因は私の気の小ささにあるということでした。「気が小さい」とは、間違いや失敗を強く恥じ、注意や指摘を恐れ、うわさや評判に過剰反応してしまう「こころの繊細さ」です。繊細と言えば聞こえはよいですが、こころの筋肉が弱い、こころが貧弱で小さいということでもあります。
一般に、人は何か失敗をすると、その瞬間、落ち込みます。しかし、落ち込んでも、そのうちにじわじわと浮かび上がり、やがて元通りの弾力を取り戻します。それが普通の人の回復力というものです。こころが健康な人は、学習機能が有効に働いて、失敗したことを原動力にして、向上へと結びつけていきます。
うつ病になる人は、失敗の原因をあれやこれやと探り、たとえ錯覚であれ、探し出したような気になります。ときには、原因を探しきれないこともあります。それでもあきらめきれずに探し続けてしまうのです。そうして悶々とスッキリしないものが積み重なって、不愉快で難しい表情になり、無口で落ち込んだ印象をまわりに与えて孤立を深めます。
どこか適当なところで、知恵を働かせて吹っ切る。考えがまとまらないときは一旦止め、一日おいてから一時間だけ考える。それで出ない答えなら「答えはないのだ」とあきらめる。そのあきらめがあなたを救うのです。
仕事上のしくじりは、誰でも気になるものです。自分に起因するのであれば責めを感じ、責めはある種の苦しみですから、次からは慎重にやろうとします。それは当然であり、慎重に対処する注意深さが芽生えるのもいいことです。
注意や指摘を受けて、過剰なまでに責任を感じてしまう人が問題なのです。注意や指摘は、警告と受け止めます。過剰な反省、過剰な責任感が表面化していくと、神経質で口やかましい人のレッテルが貼られ、ともすればよくない評判さえ立ちはじめます。
そうなると、内心のおだやかさは消え、冷静な判断や適切な選択ができなくなり、この先も危うくなります。もともと気にするタイプの人なので、せっかくつちかってきた評価に傷がつくことを恐れます。そういう一連の考えが、脆弱きわまりないのです。
諸事の判断や選択の基準が、か細い神経でこぢんまりと作られているため、大きい物は入りません。いわゆる「受け皿の大きさ」というか、器というか、そのサイズが「小」なのです。
大きな気持ちで対応しないと片がつかない問題が起きたとき、「小」サイズのこころでは収容しきれません。気が小さいとは、そういうことなのです。
機械であれば、電気的にも機械的にも「しきい値」を甘く、鈍く設定することができ、凸凹の少ない滑らかな反応を示せます。しかし、人のこころはそう簡単にはいきません。
気が小さいという人、では、なぜ気が小さい性格になったのでしょうか。先天的なものでしょうか、それとも後天的なものでしょうか。
気が小さいのは生まれつき、と言う人がいます。しかし、生まれたときは大らかで、大ざっぱな子供であったかもしれません。性格は、その人が置かれている環境に大きく影響を受けます。たとえば、愛情あふれる両親のもとで育つ過程でも、少しずつ手直しをされます。
整理整頓にはじまり、返事や挨拶の仕方、していいことといけないことを教えられ、「しっかりしなさい」「あの子を見てごらん」など、心地よくない言葉に叱咤激励されながら、ちゃんとした人間になるよう育てられたのではないでしょうか。
的を射た親の小言に反論もできず、子供心に「しっかりした子」はお題目のように、あなたの中でくり返されてきたはずです。
大人になると、その言葉は「完璧さ」に置き換わります。そんなことは屁とも思わない人もいれば、強く意識する人もいて、後者の中には私のように、のちにうつ病にまでなる人が含まれています。
私にとって、上質な仕事を心がけ、それを目指す人間になることは、ある種の憧れでもあり、「完璧」は神秘的なまでに響く言葉でした。「仕事はその人の作品そのもの」と聞けばなるほどとうなずき、やる以上はしっかりやりたいと思っていました。そのおかげで、それなりの成果を残し、それなりの評価をもらい、あるレベルまでやってこられました。そして、それは健全でごく自然な努力の形であったと思います。
ただし、この努力の過程には、よけいなもの、邪心のようなものもくっついていたのです。
①些細なことを気にする
②人の目や評判を気にする
③まわりに気を取られる
④事を性急に判断する
⑤過度に一喜一憂する
⑥やることに見栄が多い
大らかな気持ちで努力する人には、こうしたやっかいさは無縁だと思います。邪魔なものがない分、努力が早く遠くまで行き着くことを可能にします。そして、求めたよりもっと大きな成果を手にするはずです。
一方①〜⑥にあげたような気質が強い人は、それに振り回されて普通の人が普通に通る軌道を逸したりするのです。
自分の内面がうつ病の回復を妨げてる?
治療をはじめてから数年もたつのに、医師は「のんびりいきましょう」と言うばかり。それは適切な言葉であり、治療であるはずなのに、焦る患者には届きません。
自分だけが特別、もしかしたら不治の病、などと受け止める傾向すらあります。
回復の時期、回復の目安は、患者としては一番聞きたいところですが、医師には具体的に答えられません。なにしろ、ほかの病気のように数値がいくつだから治療を続けるとか、いくつに下がったからもう治った、といった指針がないのですから。
医師はファジーな表現で伝えるしかなく、患者もアナログ的に知覚するしかないのです。
うつ病のホームページなどを見ると、「うつ病はこころの風邪だから、時期が来れば治ります」と出ていたりします。無理をせずに、がんばらずに「そのとき」を待つことも大切ですが、医師の指示どおりに治療を続ける一方で、自分で自分自身を変えていく必要性もあると、私は思います。
少しきつい言い方かもしれませんが、考え方やこころの構えが変わらなければ、よく眠るボーッとした人間が一人復活するだけのこと。睡眠不足から解放されただけでは、克服とは呼べません。
もしあなたが悩みを抱え、ここまで読み進んだのでしたら、ご自分の性格になにがしかの疑問や不満をお持ちと推察します。気が小さくて臆病、難しい性格で神経質。ひょっとしたら私と同じように、かつてそんな子供であり、いま現在もそんなあなたではありませんか。
あなた自身の先天的な特質があることはもちろんですが、愛情をもって育てられたからこそ、そしてあなたが少しだけ賢く素直だったからこそ、周囲の期待に応えようとがんばってきたのでしょう。
いろいろ考えないで楽にしていれば、そのうち元気になるという意見があります。
私の担当の先生もそのような見立てで、難しく考えず気を楽にしていきましょうと指導してくれました。そして、その治療が私の苦痛を和らげたのはもちろんです。数カ月で治るようなうつ病だったら、「そのうち治る!」でいけるのかもしれません。薬によって脳内物質の分泌をうながしたり、眠れるようにすればなんとかなるのでしょう。
しかし、長期化した根の深いうつ病は、「そのうち治る」の域を超えています。
医師の治療だけでは解決できないのではないか、自分をうつ病にまでした原因を、とことん突き止めなければ。そう感じて、私は両親と自分の性格、それに育った環境との関わりを探りはじめたのです。
あなたの思考回路、あなたの性格、あなたの信念、あなたのこだわり、それらを形作った環境、模範としてきた人や規律などなど。あなたがいまの苦しみから抜け出すのに不必要なもの、邪魔なものは、この際捨てるのです。一度、腰を据えて取り組まなければ、治ったかのように見えても、また元の木阿弥になってしまいます。
私自身の経験から、医師による治療を続けながらも、自力で回復し、克服していかなければ、うつ病は一生あなたに取りついて、苦しみを送り続けると言い切れます。
どんなことをしてでも、うつ病をやっつけましょう。
自分自身で、ものの考え方の癖や傾向をきちんと知ることは大切であり、「認知療法」とも呼ばれています。しかし、いたずらに生育歴その他に原因を求めすぎるのも問題といえるでしょう。
残業もないおだやかな夕暮れ。たまには早めの帰宅もいいだろうと、会社をあとにする。家に帰れば迎えてくれる家族がいて、くつろげる空間もある。それでも気持ちがはずまないのであれば、やはり何か悪いものにとらわれているのです。
「自分の人生は失敗だな、生まれてこなければよかった」
出口がまったく見えない状況で、思わずそんな嘆きがこころの中に浮かびました。
この思いは、私のこれまでの人生のすべてを包含し、納得するのにふさわしい言葉でした。シンプルで乾いた響きだが、すべてを言い当てていて、わずかに残っていたエネルギーを失わせるのには十分でした。
治療をはじめてもう四年。なんとかしなければ、部下も同僚も、そして家族を含めたまわりのすべてが、自分から離れていくのではないだろうか。よい人、悪い人ではなく、「異質な者」として恪印を押され、完全に孤立してしまう。そんな状況まで来ていました。絶望の淵に追いつめられ、「どうすればいいのか?」と考えない日はありませんでした。
あるとき私は、書店に立ち寄って、気がつくと曽野綾子さんの文庫本を手に取っていました。そして何気なく開いたページに、こんな言葉を見つけたのです。
「人生に失敗ということはない」
「どんな人生も、それを見抜く眼さえあれば偉大である。挫折には、挫折の意味がある」
失敗にもちゃんと意味がある。うつ病につまずき、挫折し、消えることのない苦痛に、もはや生きる価値さえ見出せないでいるいまも、がんばってきた自分をちゃんと見ている人がいると信じて、踏ん張ってみようと思いました。
あなたも、あきらめないでください。なんとかなりますから。いまは孤独にさいなまれ、失望の極みにあるでしょう。でも、そんな状況にまでなって、それでも明日が見えないのであれば、次は発想の転換です。
この世のどこかで、あなたの頑張りを見ている人が必ずいることを信じてください。それは、ご先祖さまかもしれません。神さまかもしれません。とにかく、そう信じて回復する努力を続けましょう。
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