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通販ビジネスだけがなぜ伸びるか?

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通販ビジネスだけがなぜ伸びるか?

テレビ通販の雄

薬の通販は、こちら→サプリ館

プロ顔負けの喋り
♪北の町から南の町まで 素敵な夢を届けます
心やすらぐゆとりの生活 電話一本かなえます♪
軽快なリズムのテーマ曲をバックに、最も注目すべき通販番組のホストが、眩いライトを
浴びながら、緊張した面持ちで今、私の前に立っている。時は二〇〇三年二月末日。所は長
崎県佐世保市内にある「ジャパネットたかた」の自社スタジオ。ライトに照らし出されるの
は社長の、というより同社のシンボルである高田明だ。いつの間にか彼の朴訥な語りは全国
を席巻し、その笑顔を見ない日はない。高田率いる「ジャパネットたかた」は、二〇〇一年二月に大規模な物流センターと受注セ
ンターを備えた新社屋を新設し、さらに同年三月には、自前の「ジャパネットスタジオ242」
を旧本社屋に開設、CSデジタル衛星を通じ、佐世保から直接日本全国ヘテレビ放送を可能
にした。二〇〇二年度の売上高実績は六二四億円と、破竹の勢いのメディア通販企業だ。
市内といっても、中心部から少し離れた幹線道路沿いのスタジオは、本社から歩いて数分
の距離。周りはロードサイド型の量販店やファミレスばかりという殺風景なロケーションだ。
やがてスタジオ手前の調整室に、もう一人のMC・塚本慎太郎と陣取った高田は、九州地
区で生放送される一時間番組のために、本番前の張りつめた空気の中を待機する。非常に合
理的に建てられているが、それでも決して広くはないスタジオの中は、各テレビ局の重役、
メーカー担当者、そしてニュース取材のスタッフで、まさにごった返していた。私は忙しな
く行き交うスタッフにぶつからないようウロウロ……。遠巻きから懸命にカメラのシャッタ
ーを切る。
番組はまさにその調整室から始まった。高田と塚本の二人はそこで二言三言コメントして
からスタジオヘと歩みを進める。生放送の臨場感を出すための演出だ。私はさしずめ王を取
り巻く行列をかわすように、スタジオの隅にへばりつく。いよいよ始まった、あの柔らかいトーンでありながら、時々声が絶妙に裏返る立て板に水の売り口上が!さすが生放送、若いADがカンペ(カンニングペーパー)を振りかざすものの、高田はほとんど見ていない。
しかも番組自体がコマーシャルだから、一時間(正味五三分)ひたすらぶっつづけ。
本番中は高田と塚本が交互に切れ目なく商品紹介を行う。唯一息を抜けるのが、「金利手
数料はジャパネットが負担します」という決め台詞で説明を終え、申し込み方法の画面が流
れる十数秒の間だけだ。彼らの名司会ぶりに舌を巻きつつ、
見つめる私もそのジンダルの間は大きく息継ぎができ、ホッ
とする。
♪フリーダイヤ0120-441-222 電話ください今すぐ
に〜
商品にはこの日初めて取り上げるものもあるが、大体はお
なじみの家電品。サンヨーのカーナビ「ゴリラ」、ソニーの
ワイドテレビ「ベガ」(これなどはジヤパネットだけで二万台の売上げを達成したとか)……。「ベガ」ではお決まりのセット品がこれでもかとついて
くる。点数の出るパーソナルカラオケ「オンステージ」の紹介で、高田がなかなかの美声を
披露するのも見慣れた場面だ。
スタンバイする各メーカーの担当者も、商品入れ替えの合間を縫って、自社製品のテレビ
映りが少しでもよくなるよう、あれこれ気を回す。
そのうち高田らは一言も噛むことなく、放送は終了。
「本職の方たちの前でお恥ずかしい……」と一同に挨拶をすませた高田をつかまえて、テレ
ビ局の重役が、「いやー、勉強になりました」と、興奮した面持ちで頭を下げていたのはあ
ながちお世辞でもないと思う。本当にプロ顔負けの仕事ぶりだった。
男性はくびれ型、女性はビア樽型
バブル以降一〇年以上の長期にわたる平成デフレ不況下で、通販業界だけが堅調といわれ
る。
唯一の業界団体である日本通信販売協会(JADMA)が算出した推計でも、二〇〇一年
の業界全体の売上高は二兆四九〇〇億円といわれ、同協会が調査を開始以来、最高額を記録している。

通信販売の売り上げ推移

通信販売の売り上げ推移

ただ、これらの数字は、あくまで日本通信販売協会会員社および非会員対象の郵送調査他、各調査機
関の調査結果に基づき弾き出されたもので、かなり信憑性が高いとはいえ、ごく小規模の企
業を加えると、実態はそれ以上の市場規模と思われる。
こうして、不況をもろともせずに成長を続ける通信販売業界が、どのように私たちの生活
に根付いてきたか、その過程と背景、そしてビジネスモデルの秘密などを、代表的ないくつ
かの企業を中心に探っていったレポートが、これからお読みいただく本書の内容である。
超近代的なシステム
この通販を、現在のようにお茶の間に広く浸透させたのが「ジヤパネットたかた」である
ことはいうまでもないだろう。「たかた」は地方の一企業であるが、その知名度とそれに比した近代的なシステムは、まさに「テレビ通販の雄」と呼ぶにふさわしい。
それは社屋にも表れている。私は番組の見学前に、広報担当の佐伯卓哉に施設を案内して
もらった。
ハイテクを駆使したスタジオでは収録や放送だけでなく、各テレビ局に送るテープのダビ
ング作業なども行われ、CS用のVTR放送も光ケーブル通信によって瞬時に東京に送られ
配信される。
本社屋は埃からオペレーターの喉を守るため土足厳禁であり、三階の四〇〇〇m2が柱なし
という広いワンフロアに、受注、カタログ、インターネット制作、商品企画開発、イントラ
ネット(社内情報網)構築などすべての業務が集約され、垣根なしに行われている。
二階は出荷事務センターで、一階は配送センター。これがまたどでかい。「たかた」独自
のセット商品の場合、複数の商品も一つの段ボール、通称″たかた箱″にまとめて入れられ
発送される。バラで送るより手間はかかるが、そのほうがユーザーには便利だし、送料もかからないからだ。

稀代のベンチャリスト

さていよいよ、ひと仕事終えた高田がインタビューに答えてくれた。実際の高田は繊細な
気質に見受けられ、放送で疲れたのか掠れた声で、慎重に話に応じ始めた。
高田は一九四八年長崎県平戸市生まれ。七一年大阪経済大学を卒業後、阪村機械製作所に
入社する。学生時代、ESS(英語研究会)に所属するほど英語好きの彼は、貿易部に配属
後、ドイツ出向を命ぜられ、一年余りをヨーロッパで過ごしている。当時は東西冷戦の真っ
ただ中ではあったが、東ドイツのライプチヒやポーランドの工場などに派遣され、「世界的
な視野でものを見る目を養われた」という。
七四年、故郷の平戸に帰り、父が経営する「カメラのたかた」を手伝う。当時写真業界は、
白黒からカラーに移行するころで、平戸の観光ブームの影響により忙しくなった家業を兄弟
で手伝っていた。そのようななか、「カメラのたかた」は支店を出店。二七歳の高田は平戸
の隣の松浦市まで通った。
「町の写真里ですからね。最初は一人で、手伝ってくれる人もいませんし、写真に関するこ
とはなんでもやりましたよ。記念撮影に旅行の添乗、宴会場などにも出張して撮ったりね」
開店当初の売上げは月五五万円ほど。これを三〇〇万円にすることをまず目標にした。店舗や労働・在庫効率、それに松浦市における写真人ロシェアなどの数字から経営を考えた結
果、ほどなく目標を達成する。
そのときの喜びを原点に、次は近隣の大きな街・佐世保へ出店。八六年「たかたカメラグ
ループ」から独立し、「株式会社たかた」を設立した。フジフィルムからプリンターを借り
てのスタートで、ここでも高田は、いかにプリント数を増やすかを理詰めで考えた。当時カ
ラーの現像所は少なく、佐世保でも三、四か所程度だったから勝算はあったが、市内全域を
自らがフォローするのは至難の業だ。そこで思い付いたのが取次店による展開。しかも、朝
出して夕方仕上がるスピーディなシ‘ステムを導入したため、ピーク時は日に五〇〇本から七
〇〇本のフィルムが集まるようになった。
「そのころから、カメラ業の傍らソニーの特約店としてソニー製品を扱っていましたので、
ビデオカメラが普及しだすとその販売に力を入れました。お客さんには当然商品の説明をし
て販売します。小さな町ですので一軒一軒訪販とかもしてね。お年寄りがいらしても、わか
りやすい説明をするように心がけてました。そこで今の道が開けてきたのかとも思います」
ソニーショップの事業は高田の商売を広げたばかりでなく、その「語り部」としての資質
を開花させたといってもいいだろう。店も佐世保近辺に三、四軒持つようになると、高田は次なる挑戦、ラジオ通販へと進出する。
九〇年、地元の長崎放送で「通販九州」の名で始めたラジオ通販だが、当然社内に専門の
アナウンサーはいないため、高田が自ら喋ることになった。また当時、局側の規制が大変厳
しく、放送は年に二回ほど。現在のようにレギュラーで放送できる時代ではなかった。しか
し、放送局と交渉を重ね、また回を重ね実績をつくることで信頼を獲得、少しずつ放送枠を
増やしていった。
「喋ることの基本はラジオにあり、それを超えたらテレビにも入っていける」
という経験則が高田に備わった。
テレビ放送は九四年六月、深夜の三〇分枠から開始された。そこで初めて扱った商品はソ
ニーのハンディカムだった。
そこで初めて使われた「ジヤパネット」というネーミングにも謂れがある。ラジオ通販が
四国に進出する際、それを踏襲して「通販四国」で始めたのだが、全国に広がっていくにあ
たって、その地方の名をいちいちつけていくと混乱をきたす。そこで「通販たかた」にいっ
たん名称を変えた。
だが、テレビ進出の際、それでは全国区にはなりえないと、プロにネーミングを依頼した。三〇ほど候補案が出されたが、そのどれもが高田にはピンとこなかったという。やり取りの
中で、自分の意図しているのは全国ネットである、と言ったら、「ジャパンネット」という
提案が折り返しなされた。少し呼びにくいせいか、「ジャパネット」と詰めて呼ぶことに。
テレビ通販の代名詞がここに誕生した。

自前主義

高田は自社通販の原則として三つのテーマを挙げる。自前主義とメディアミックス、そし
て金利手数料負担だ。
自前主義の最たるものが、先に挙げた配送センターと自社内スタジオである。
「まず(ラジオショッピングの)ネットワークを作ってみようということになり、一年くら
いかけて福岡、熊本から北海道まで拡大していきました。現在ではテレビのイメージが強い
ようですが、どちらかと言えばラジオのほうが私は好きです。なぜならラジオは声のみの媒
体で姿は見えませんから、声でいかにリスナーの心に訴えていくかが問われます。ラジオシ
ョッピング自体は全国どこでもありましたが、ネットワークをつくったのは私どもが初めて
じやなかったでしょうか」確かに、広い本社三階入口に不釣り合いに小ぶりなラジオブースがある。そこから放送局
とダイレクトでつながり商品紹介が行われる。広報の佐伯の説明ではこうだ。
「ラジオは基本的に生。暖房器具を紹介する予定でも、その日が暖かかったら、違うものを
紹介します。各地方の天候などの諸条件を考慮し、当日紹介する製品を決定するんです」
そうしたフットワークの軽さがラジオの利点であり、だから、ラジオこそ高田の販売人と
しての本領が発揮されるメディアといえる。高田の徹底した自前主義も、テレビのラジオ化
というか、完全に自分の意図した放送にしたいがためなのだ。そのため、スタジオでの作業
も全部社員が務める。
佐伯はジヤパネットの番組制作体制についてこう説明する。
「外注制作のテレビはオンエアまでに時間がかかります。パソコンなどは三か月サイクルで
新製品が出るので時機に間に合いません。その点、自社スタジオならいつでも撮影ができる。
ここでは地上波やCSの生放送もこなせますが、生放送なら、その時に一番伝えたい商品情
報をリアルタイムで流すことができるのです。技術スタッフには中途で採用した経験者もい
ますが、多くは他部署で活躍していた弊社の社員です。一から勉強して技術を身につけ、今に至ります。

メディアミックス
高田は次いで、三原則のうちの一つ、メディ
アミックス展開のため、九五年には会員向けカ
タログと折込チラシも発行、と全国規模の通販
へ着々とステップを踏んでいく。
コフジオと地上波のテレビには時間の制限があ
り、紹介できる商品も少なくなる。自社の衛星
放送は二四時間体制で使えるので、多くの商品
をご提案できます。また、若い方にはインター
ネットでもいいが、年輩の方はチラシなどの紙
媒体でないと安心できない側面もある。しかし、
どれもこれも改善の繰り返しですよね。前進し
ては反省するというか。大きいことを始めると、
その器を充たすために小さな課題がいっぱい出てくる。それを1つとして疎かにせず、作り込んで中を埋めていかなきやならない。それに
対応してはきましたが、まだまだ・・」
そういえば以前、高田は番組内で、アフターケアについては「一〇〇%とは参りませんが、
それを目指して、一〇〇にどんどん近づけるように……」とサービスに終わりのないことを
控え目に宣言していた。彼のモットーである顧客満足度をいかに上げるか、それも通信販売
という、顧客が手に取れない商品を、店舗で買うのと変わらないまでの信頼をいかに付帯さ
せて売るか、にもまったく終わりはない。
このように高田は完璧主義者特有の話し方をする。謙虚さを跳び越えて、なんというか、
石橋を叩いて叩き割るような凄みを感じた。

電波に乗った家電量販セレクトショップ

三原則の最後、分割の金利・手数料負担だが、これは年間で何十億円もの重荷になるとい
う。ただ、これこそが高田が自負する「アフターケア投資」の象徴。やめるわけにはいかな
いのだ。
「六〇万円もするプラズマテレビのローンだと五年にわたったりするので、正直大変お得ですが(笑)、今、ハイビジョン放送もクオリティが上がってきて、見ないともったいないで
しょう。そうした生活提案も含めてるんです」
企業が大きくなれば、それなりの責任を果たさなければならない、と高田は再三日にする。
商品に様々な付加価値をつけることで、顧客との関係の永続性を印象づけるのだ。
例えば、プラズマテレビを置く台に困るならそれをセット品として付ける。ビデオカメラ
なら、そのうち必要になる三脚や予備のバッテリーが付く。そんなセット販売も、考えてみ
れば、かつて町の電気店ならどこでもやっていた。量販店ほど割り引きができないぶん、お
まけで穴埋めをしていたのである。しかし、ジヤパネットは量販店を凌駕する安値の上に、
セット品を付け加える。こういう商品提案の仕方が「消費を喚起する」のだ。
「店頭で買われるのと負けないサービスを心がけてます。エアコンやBSアンテナなどの取
付工事は無料ですし、パソコンでのADSLセットアップも三九八〇円で請け負っている。
到底それでは賄えず、コスト負担はしてますが、パソコンを使うまでに多くの人が挫折する
のを防げる。高額な商品ですし、一般家庭のニーズなら、それで『よかったな』と長く使い
続けてもらえればいいんです」
確かにジヤパネットが番組で取り上げる商品のいくつかは、多機能型の高額なAランク機種でないこともある。この点、量販店と仕組みはいっしょで、必要最低限の機能に絞った製
品なら、自ずと価格は安く提供できる。高田は以前、雑誌(『プレジデント』誌二〇〇二年
一〇月一四日号)の取材(構成・今和朗)で、そのあたりについてこう答えている(要約一
筆者)。
商品力とは、誰がどんな基準で決めるべきものなのかはっきりしていない。商品は、
それを作るメーカーと買う消費者、そして作り手と買い手を繋ぐわれわれ流通という、
三つの存在から成り立っている。商品性が優れているとか、商品力が強いというのは、
この三つのどのサイドから見るかで、全然異なってくる。
私は自分で抜う商品を決める際、まずメーカーが作った商品パンフレットをじっくり
眺めることにしている。しかし、ほとんどの場合、巻頭ページは、新開発した機能や最
新のテクノロジー、メカニズムなどを謳ったものになっている。そうすることで優れた
商品性を強調しようとしているのだろうと思う。
だが、消費者から見れば、それが一読しただけでは判断がつかない。多くは難解な専
門用語で彩られているからだ。しかも、メーカーにとって「当たり前」となった機能や情報は、パンフレットの最後のほうに、付け足しのように記載されているのが実情。が
それが消費者にとっての「当たり前」とはならない。
メーカーは消費者ではなく、他社メーカーのほうを向きながら開発競争にシノギを削って
いるのではないか。消費者にとって一番大事なことは、どんな商品がいくらで買えるか
である。すべての消費者が、フル装備の多機能商品を求めているわけではない。機能が
少ない商品でも、それに見合った価格が設定されていれば、欲しがる人はいるのであ
る。
こういった送り手と受け手の「温度差」を認識した上で、その商品のウリを的確に見抜い
た選択型の商品提案はなされる。こうしてあのセールストークも可能になってくるのだ。
家電分野では様々なアタッチメントでの需要が想定できる。次は電子ジャーを買い替えよ
う。そろそろ新しいポットが欲しいな……。そんな日々のニーズに、電話やネットの向こう
の「大きな大きな町の電気屋さん」が応えてくれる。私はジャパネットをそんなイメージで捉えた。

「たかた精神」の継承
そして、高田はまさしく町の電気屋さんらしく、故郷・長崎を離れようとしない。佐世保
で仕事ができるのがなによりのようだ。
「やはり故郷ですからね。それに通信環境が整った今、通販だけでなく地方発の企業がもっ
と出てきてもいいと思ってます。中央との距離は関係ない。ネット販売は三年前からやって
いますが、Iモードの申し込みなど一日に八〇〇〇件あった日もありました」
高田はこれをあるテレビの報道番組の取材で、「通販が世界的戦略を練ることができる時
代」に入ったと表現していた。しかし、今のジャパネットの好調は、高田のこうした真摯で
柔和な、田舎紳士的なキャラクターに負う部分がかなり大きいのではないか? 私は取材の
最後に率直にそうぶつけてみた。
高田さん、あなたはケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースに近い存在で
はないですか? サンダース大佐自身が最早チキンを売ることはないが、ずっとああしてケ
ンタッキーのシンボル人形として店頭に立っている。「ジャパネットたかたイコールあなた」
なんです。ブラウン管の中であなたが薦めるから買うというお客さんが圧倒的に多いのでないでしょうか。私が勢い余って捲し立てると、高田はこう答えた。
「数年前はラジオ放送のほとんどに出演していましたが、今では日に数本喋るか喋らないか。
私以外の喋り手で番組が成立するところまで来ました。テレビも、時機が来ればいつでも引
退していい、と思っています。今は私の顔で買っていただくことが多いとしても、メディア
ミックスや自前主義で企業のメッセージを発信し続け、ブランドカをつけていくことで、い
ずれ『ジヤパネットたかた』という企業から買い物をしていただけるようになればいい。今
は過渡期だと思っています」
いずれにしろ、高田は売り手の見えないのが当然の通販に見事な「顔」を持たせた。こう
した高田のトライアルの中に通販の真髄がこもっているといえよう。

総合力タログ通販の現場

利用第一位はカタログ通販
JADMAの二〇〇一年度「全国通信販売利用実態調査」によれば、通販の利用媒体動向、
つまり消費者が何をよりどころに通販に参加しているかというと、一位はカタログ(五二・
六%)である。以下、テレビ、雑誌広告、DM(ダイレクトメール)、折込、ネットとほぼ
二〇%平均で、どんぐりの背比べといった印象だ。
カタログ通販こそ、通販の歴史の中で、最大の功労者といっても過言ではない。特に一九
八〇年代に入り大ブレイクを遂げるのだが、本章ではその中で今も昔も王道をいく、総合力
タログ通販の動向について取り上げてみたい。

頒布会からスタートー「千趣会(せんしゅかい)」

日本の総合力タログ通販を代表する千趣会の本社は大阪市北区にある。市の中心部にもか
かわらず、周囲は静けさに満ちている。同社を訪れた私を、まず総務部部長の田川喜一が出
迎えてくれ、彼が一通り会社の概況を語ってくれた頃に、同社のカタログの要であるファッ
ション事業部門の二人の長が現れた。同事業部長の田邊道夫、同スタイル開発部長の峯岡繁
充だ。
「なんせ上意下達っちゆうより水平で、社員が同じ目線でものいいますわ。だから、売上げ
第一とかにこだわるんより、まず自分らの売りたいもんをはっきりささなっちゆう社風です
な」
田邊は同社の社風をそう説明する。
ところで、一九八〇年代後半から九〇年代を通じて演じられた、千趣会とセシールとのデ
ッドヒートは有名だ。
「セシールさんが(年間売上高)二〇〇〇億突破、千趣会も一八〇〇億台、ニッセンさんが
1600億円と、九七〜九八年がピークでした」
九〇年には東証、大証一部に同時上場。バブル期以降は大量に印刷し配る、物量勝負の時
代だったと田川は回想する。部数にして最高総計なんと年間九〇〇〇万部!「しかし、売上げイコール利益じゃない。そのやり
方をいくら続けても、カタログの印刷や配送コスト
に見合わなくなってくる。もっと効率よく、利益が
出る体質にしていかないと。うちも減収率は一昨年
(二〇〇一年度)がナンバーワンだったんじゃない
のかな。ようやく持ち直していこうかというところ
ですよ」
ずっとセシールの後塵を拝していた千趣会だが、
二〇〇一年度を除き、ここ数年売上げトップの座を守り、カタログ専業の雄という印象があ
る。その強さの秘訣をファッション事業部長の田邊はこう説明する。
「こと嫁入り前の女性のハートをつかむことにおいては、一日の長があったということです
わ」
まだ若い女性の人生最大のゴールが、揺るぎなく結婚と見なされていた時代、頒布会から
スタートした同社は、未婚女性に夢を与える民芸こけしと、料理や手芸の専門誌販売で大き
くなった。それが、花嫁道具として具体的に必要不可欠な物品販売へと業態転換を図った。

当初こそ綺麗な商品、コレクタブルな商品が主流だったが、次第にその領域も拡げていく。
二二〜二三歳が中心の顧客対象も大幅に拡がった。それでも男性客は圧倒的に少ないという。
「いぴつな会社ですわ。九六〜九七%が女性客なんてね」(田邊)
「隠れたベストセラーは『BENEBIS』という靴のカタログで、一一年前から出してま
すが、当時から外反栂趾の方向けの靴を開発して載せてます。見た目もお洒落でしょう?
社内履きとしての利用者が大変多い」(田川)
「一足の木型が五〇〇万円かかったちゆうのもあったわな」(峯岡)
確かに丁寧な作りで、デザイン的にもブランド物の婦人靴とそれほど差はなく、サンダル
やスリッパなどで過ごすよりずっといい。女性の備く職場を足がかりに、OL通販で成功し
てきた同社らしい気配りの品だ。

最初の成功は「こけし」

なぜ、千趣会が長年にわたって女性の心をつかみ続けてきたか。それは、会社の歴史に大
いに関わってくる。
千趣会創業社長の高井恒昌は、現社長行待裕弘の叔父が経営する、山梨の天巧ゴム工業という会社で仕入れを担当していた。しかし一九五三年九月、天巧ゴムの本社と工場が火災に
遭ったことから、高井と行待は独立して自転車タイヤの卸を始める。そして、翌年早々から
「味楽会」という名で銘菓の頒布会販売を始めた。
頒布会のシステムは、京都の老舗陶器店で陶磁器小売業界第一位の「たち吉」が考案した
という。毎月会費を払い込み、結婚支度のための陶器を必要なだけ購入できるというもので、
昭和三〇年代から四〇年代にかけて大流行した。月々、テーマに沿った、バリエーションに
富んだ商品を提供するのが特徴で、このシステムが現在、「北海道味めぐり」などといった、
グルメ通販として確固たる地位を築いている。
味楽会のスタートは順調だったが、ちょうど梅雨の時分に配布予定の落雁からカビが発見
され、事業自体にストップがかかってしまった。そこで行待は、何年も胸中に暖めていたこ
けしの頒布に乗り出すことにする。その際、仕入れ先である兄の会社「こけし千体趣味の会」
から何字か拝借して、「千趣会」と名乗った。
会員勧誘に動いた行待は、「味楽会」の経験から、ただチラシを配って歩くだけではダメ
だと悟っていた。そこで着目したのが、戦後比較的早く立ち直り、かつ女性従業員の多い金
融機関である。狙いはドンピシャだった。女子行員が三〇人、四〇人とまとまって申し込みをし、窓ロ役
の女性が給料日には集金の面倒まで見てくれる。そうした「お世話係」を持つことが頒布販
売の要諦だが、それが自発的にどの職場でも生まれていったのだ。
四〜五か月もすると会員は四〇〇〇〜五〇〇〇人になり、一ロー○○円だから、高井にも
無視できない儲けだ。その年の暮れには、こけし販売に専念すると決めた。高井の妻の提案
で、外部代理人の手数料を一ロニ○円と定めると、見る間に二〇〇〇人の会員を集める者も
現れた。それが高井の姉で、当時、彼女が手にした月々の定期収入は、高井の月給を遥かに
超えていたという。
こうして女性の生活の潤いにと始めた事業は、わずか三年で年商一位円を突破。しかし、
高井は、こけしは戦後復興と共にその役目を終えると読んでいた。そこで、こけしに付加価
値を設けるために、いくつかの企てを試みる。まずはこけしの叙情性を高めようと、模様を
織り込んだ和紙に詩を刷った栞を添えたのだが、これが自社出版物の販売という、その後の
千趣会の流れを形作っていく。
五八年にはオールカラー料理カードシリーズ『クック』が誕生。大家族の中で育った高井
は、主婦が毎日の献立に苦労するのを肌身で知っていた。やがて当時、普及の目覚ましかったテレビ料理番組との提携を日本テレビに持ちかけ、これが成功、『クック』は月刊誌化さ
れ、六九年には最大八二万部を記録する爆発的ヒットとなった。
この路線に続いたのが六四年創刊の『デリカ』。七〇年のピークには最大二八万部と、手
芸誌最高の売上げを記録した。ただ『クック』『デリカ』とも母の手料理、手編みが当たり
前だった時代のガイドブック。女性の社会進出が普通になった八〇年代後半には揃って休刊
している。
オイルショック直後の七五年、行待はカタログ進出を決意する。それは、京都に本社を置
き、小売店を通じて呉服カタログを配布していた日本通販が商談を申し込んできたのがきっ
かけだった。和服に特に魅力を感じなかった行待だが、カタログ呉服販売の大手ニッセンが、
洋服に参入するという情報が入り、これまで趣味教養品分野だけ扱ってきた千趣会も、その
煽りを喰いかねないと判断したのだ。そして翌七六年、最初のカタログ『ベルメゾン』(仏語で「美しい館」の意)を発行する。

スペシャル主義を貫く

現在も同社の看板である『ベルメゾン生活』だが、かつてはOL相手のため、ファッション記事の占める比重が抜きん出て高かった。だが、その後、各社間で競争が激化し、分厚い
百科全書主義のニッセンに分冊主義で対抗に出る。
そのなかで雑貨を扱った『住まいと雑貨』(八六年前身の『ベルマニエ』創刊、現『すま
いと雑貨』)が雑貨ブームの魁となり、これは今でも基幹カタログの中でも最高の人気を
誇る(年三回発行・各三七〇〜三八〇万部)。
分冊主義が進んだ結果、一時は収納家具のみを扱ったカタログや、Tシャツだけのカタロ
グなど全部で二五冊もあった。このような行きすぎたスペシャル志向への反省から、現在は
一五冊まで絞り込んでいるが、「それでもまだ多いんちやうか」と峯岡は言う。
『ベルメゾン生活』の内容を見ると明らかだが、看板であるファッションは四分の一程度に
抑え、「雑貨でナンバーワンを目指す」姿勢がはっきり出されている。そもそも千趣会は雑
貨頒布から興った会社だ。本道に回帰しただけのことなのかもしれない。このところ家具を
含めた雑貨売上げの伸長は目覚ましい。雑貨を核にしたトータルライフカタログの『新生活
館』はコンビニ、書店にも置かれ、コーディネートに気を配ったその写真には、さりげなく
洋服も登場、かえってこちらのルートでの販売のほうが多いのだという。
「雑貨で洋服を売るというわけやね。しかし、我が社の歴史というんはトライ&エラーの連続ですわ」(峯岡)
実はセシールやニッセンの大衆路線を意識するあまり、『ベルメゾン家族』(九六年四月発
刊・二〇〇一年夏休刊)で一敗地にまみれた千趣会。今度は二七〜二八歳のOL中心マーケ
ティングに再転換した。もはやファミリーではビジネスにはならないのか。田川は言う。
「夫婦に子供二人という標準世帯は、今、四〇%を切ってるでしょう。子供の数も平均一・
三人というから」
それにしても、千趣会の各カタログの誌面はさすがに洗練されており、女性ファッション
誌と見紛うばかりのレイアウトだ。私がそう指摘すると、峯岡は編集者のような口ぶり。
「よそさんにはミラクルだったでしょうね。ずいぶんコピーされたもんですわ。スペックの
文字組が対だとか、ノウハウがいっぱいあるんでね。自社のハウススタジオも持ってますし、
海外ロケなども仰山やりましたわ。それでも、ポケットなどのディテールは必ずしっかり映
し込むようにしてます。お客さんが気にされるとこは全部ね」
「ベルメゾンがブランドなんですよ」と田川。
「下半身というかね。上半身は情緒の部分、いろいろすげ替えはあるんだけど、すべてのカ
タログが『BYベルメゾン』と一貫してるし、表紙でそれを謳ってもいますよ」千趣会はメーカー志向だとも田邊は言う。現に商品の九割方がオリジナル企画である。
「一五年ほど前には、三菱自動車のギヤラン系統の車に女性仕様車を作ろうと共同開発した
こともあってね。といっても、マニュアルギアの本格派。それなんか、どうも″男性自身″
の硬さがいいんだそうでね。いや、これ冗談じやなくて、なんだか真面目にそんな研究しと
ったねえ(笑)」(峯岡)
しかし、とりわけユニークなのがウオルト・ディズニー社とのタイアップで九三年に生ま
れた『ディズニー・ファンタジー・カタログ』。「くまのプーさん」一つとっても、車用のM
D(ミニディスク)ケースやワッフルメーカー……
もう思いつく商品はなんでもあり。身の回りのもの
を全部ディズニーで固めることも可能なのだ。かつ
てはミッキーの南部鉄瓶などもあって、これなど
「火傷する危険がある」となかなかディズニー社の
許可が下りなかったというが、説得を重ねて売り出
したところ数万セットも売上げたという。

群雄割拠の業界

ここまでたびたび話に出てきた、セシール、ニッセン、ムトウの大手三社に関して、ここ
数年の勣きを中心に簡単に触れてみよう。
香川県高松市に本社を置くセシールは、一九九二年三月期決算で業界初の売上高二〇〇〇
億円を突破したが、九八年三月期決算で千延会にトップを譲り、以来、その売上げは減少傾
向を辿っている。三七年生まれの社長正岡道一が七二年、アジア物産として創業。パンティ
ストッキングの配置販売からスタートし、八三年に現社名に変更、総合力タログ通販に乗り
出し、その年にランキング三位、八六年一〇月期決算で売上げI〇三九億円を達成し、第一
位に躍り出た後は、王者の座に君臨し続けていた。
主力のアンダーウェアをはじめとする低価格衣料品の強さ(ストッキングー足九〇円から
揃う)は圧倒的だったが、九四年三月期決算で初めて赤字経営に陥った。当時はニッセンが
同社のお株を奪う安値攻勢に出ていたころで、その後の千延会を含む上位三つ巴の安売り競
争が、それぞれの体力を著しく消耗させたのだ。二〇〇二年東証一部上場。全部でこ一種の
カタログはいずれもフラットでともかく見やすさに徹している。
九〇年代前半、毎年、前年比二〇〜三〇%の急成長を遂げたのがニッセン。一九七〇年創業の同社の前身は京都の染物屋「日本捺染」。先行のムトウに刺激され、その商事部を分離
し株式会社日本染芸を設立、カタログ呉服販売を開始した。七五年には総合力タログ販売に
乗り込み、やがて、ボリューム満点のカタログと、「マジックプライス」と銘打つ価格破壊
戦略が功を奏するのである。
九五年度末の時点で登録顧客数は一三六六万人、カタログ発行部数は五三六〇万邦。これ
らの数を背景に、セシール、千趣会を巻き込んだ安値抗争が沸騰した。しかし、その反動が
一気に現れたのが翌年度の決算。投資資金調達の失敗なども絡み、経常損失六八億円という
赤字に落ち込んだのである。そこで、前々からあったMD(マーチャンダイジング=商品構
成)の弱さ、サービス、在庫など問題点が一気に露見し、その影響をいまだ引きずっている
感は否めない(二〇〇二年には大屋一部上場)。
つい先頃、ドラッグストアに置いてあった無料カタログの最新号(二〇〇三年夏号)を入
手して、比較的アイテムが少ない時期とはいえ、ずいぶんスリムになっているのに驚いた。
現在では春夏秋冬と四期に分けて年間約三〇〇〇万部というところまで部数を削減。千趣会
の田邊の言ではないが、カタログ通販にとってはカタログこそが売場であり、業績の集約。
まずはそこを合理化せねぱならないのがわかる。日本の通販業界で最も早く(八六年)東証上場を果たしたのが、静岡県浜松市に本拠を置
くムトウだが、その始まりは厳密な意味での通販ではない。
一九三九年、武藤洋裁所としてスタートしたムトウは、五四年、制服の見本作製依頼を受
けた際、現物見本に一枚のチラシをつけ、注文の取りまとめをしてもらうようにしたところ、
これが好評で後年のカタログ販売へ移行する契機となった。
同社最初の衣料品総合カタログが発行されたのは六七年だった。発行部数は五万五〇〇〇
部で、三〇ページに三六品目掲載という薄手のものだった。同社の特徴だった現物見本は点
数が増えるにつれ、徐々に数を減らし、七七年に全廃されている。七二年には、婦人会組織
の強い農村部だけでなく、都市部での業績を上げるべく、テコ入れ策として販売代理人(エ
ージェント)制を導入し、カタログ十訪販といった営業スタイルで、パーティー販売などに
も取り組んだ。
メーカーとして創業したムトウだったが、その直販体制の維持よりカタログ販売に徴する
ほうが顧客ニーズに応えられると判断、七三年には縫製部門を分離、そして、組織販売中心
から友の会を通じて個人寄りに次第にマーケティングを変え、八〇年にはクレジット会社の
会員誌に出稿という形で、個人向け通販を実質的に開始した。

同社も九五年を境に売上げを徐々に落としつつあったが、九六年六月、創業社長・武藤信
義からバトンを継いだ西田溥が大胆な改革を断行する。伊藤忠出身で長くアパレル畑を歩ん
だ西田は「在庫は罪悪」と、その圧縮に手腕を発揮、売上げ重視から利益体質への転換へい
ち早く成功。基幹誌『ラプティ』は二〇〇二年秋号から大幅なリニューアルを図り、表紙に
トップモデルのSHIHOをレギュラー採用、内容もI新した。同誌をはじめ、メインは五
誌に絞り込み、また、書店・コンビニ展開としてさらに若年層に向けた新雑誌『HEART』
を、同年四月より飛鳥新社との業務提携により創刊している。

「他社の真似をしたらクビだ!」ー「フェリシモ」

さて、こうした一群の大手ゼネラル通販の中で我が道を行くのがフェリシモである。同社
は非上場、業績も非公開。総合ランキングでは、後述するベルーナに次い
で九位に位置する(二〇〇二年度の売上高推計六八〇億円)。
オフィスは港町神戸を眸睨(へいげい)するインテリジェントビルの高層を数階占め、一段とおしやれ
度が商い同社の気質を表している。元は大阪の会社だが、一九九五年の震災を機に神戸に移った。私は全面ガラス張りの商談室フロアから
見事な神戸の夕景に見惚れつつ、「あまり
お役に立てるかどうか」という同社広報室
係長の上野友紀と対座した。
「私どものカタログは、カタログであって
カタログでない」
上野の話はのっけから禅問答のようだ。
要はものを売っている感覚で作るのではな
い、「未来の生活を買ってもらう」のだという。
「私たちのカタログから一か月後、一年後、一〇年後の生活を選んでいって欲しいんです。
鞄なら鞄を通じて広がる豊かな生活。お客様が生活をご白分でデザインするための素材を提
供しているにすぎないんです」
確かに同社は部門としてでなく、カタログ通販の中に頒布会形式を最も純粋な形で残す
老舗といえる。無作為にカタログのページを開けば、「ローゲージもこもこニットの会」「ガ
ランテ(ブランド名)いつでもつるせるハンギングシャツの会」といった感じで、毎月一回半年分でワンセットが基本の、ともかく「会」なのだ。
「コレクションシステムは当初からです。すべてオリジナルデザインで当社がライセンスご
と引き取ります。例えば、こんな部屋や食卓にしたいといった、憧れの生活、なりたい自分
に一歩ずつ近づくためのお手伝いをするんです。やがて婚期を迎え、子供ができて親子二代
で読まれている方も大勢いますよ」
一九六五年に株式会社ハイセンスとして創業した同社は、七七年から現行カタログ『はい
せんす絵本』を刊行。同タイトルで生活雑貨・子供編を他に年二回発行し、大人向けとクリ
スマスシーズン前に[rSanta Book』も年一回出している。それぞれが平均一〇〇万部、い
ずれも大変機知に富んだ品揃えで、
「一冊二〇〇〇アイテム掛けるデザインが六パターン……常時三万点が動いている計算です。
世界最大のオリジナル商品保有社だと思います」
そう話す上野は、かつての自身のフェリシモ体験を語ってくれた。
「高校生の時に『はいせんす』を友だちから見せてもらって、お菓子作りのセットでしたが、
とても可愛くて、それが出会いですね。その後もお弁当箱とかユニークなものがあって、利
用するようになりました。生活雑貨も所帯じみた感じがしないんですね。ラップやアルミ箔に柄を入れたのも、うちが日本初じやないの
かな?」
以前は男性向けや左利き専用カタログなど
も作ったとか。鋏や包丁、ポケットが右にあ
る服、がま口、すり鉢などなど左利きが必要
としている商品は多い。これは慧眼だ。同社
のそんな独創性は賞賛に値する。
しかし、あまりにも企業としての情報を外
に漏らさず、神秘のベールに包まれた印象なのはなぜか。JADMAの理事企業でありなが
ら、毎月調査している理事社の販売実績にベネッセとともに回答拒否を続けていることには
批判の声も上がっている。
「それは出していた時期もあります。ところが、会員が100万人を突破した記事が出た際、
お客様からお便りが届いたんですね。『私はフェリシモと一対一の関係だと思っていたのに、
実は100万もの人を相手にしている。たかだか100万分の一なのか』と。それ以来、あ
まり会社の詳細を明かすのはご遠慮させていただいてるんです」この一人の客を大事にする姿勢こそ究極の「通販愛」といえなくもないし、そのぶん同社
は企業カラーを効果的に訴える自然環境保護やチャリティなどに積極的だ。また、二〇〇三
年春から、東京や大阪など一五都府県でカタログの無料回収を行っているのも先進的といえ
よう。
「企業には社会性、事業性、独創性が必要というのが社長の矢崎(和彦)の考えです。こと
に独創性については『真似したらクビだ』と社員はいつも発破をかけられます。それだけ他
社に真似され悔しい思いをしてるんです。この間も、レジ龍にそのままセットできるショッ
ピングバッグを開発したら、すぐコピーされました(笑)」
カタログの作り方、商品、販売法、いずれもどれほど模倣が横行している業界か。これは
実物を見較べていただければ、目の肥えた消費者なら真贋は一目瞭然だろう。二〇〇一年暮
れには、シムリーが「商品デザインが酷似」を理由に、ベルーナを提訴するという一件も起
きている。ともあれ、カタログという媒体が唯一にして最大の表現となる、この販売形態に
とって、好レスポンスを得る制作ノウハウが肝心要だといえる。

「イマージュ」一指集中作戦「シムリー」

では、セシールを追う四国・香川の通販企業、シムリーの場合はどうか。同社も時代の流
れに沿い、ぜネラルの道をいったんは進んだのだが、現在は神戸に事業本部を置く、カタロ
グ『イマージュ』から発する、ブランド中心のマーケティングに移行している。
同社の創業は一九七三年、社長の南保正義が高松市に、スーパーのPOPなどを扱う広告
代理店を設立したことに始まる。やがて、下着メーカーと懇意になったことから、七八年に
はチラシ型カタログ『サンフローリアン』を創刊し、ナース向けストッキングなどの通販を
開始。八四年には神戸オフィスを開設し、『イマージュコレクション』を創刊、頒布会販売
を開始する。八七年には株式会社シムリーに商号変更、九三年二月期には年商も五〇〇億円
を突破し、同年七月には大証二部上場した。だが、翌九四年からは徐々に売上げが減少。九
五年からは三期連続の赤字決算となっている。総合型通販業界全体の過当競争の波に、五〜
六番手につけていた同社はもろに呑まれた恰好である。
しかし、そこで同社は大きく差別化へ舵を切った。それが他部門の切り捨てと『イマージ
ュ』への傾注という、選択と集中である。一冊で百数十億円を売上げていた基幹実用カタロ
グ『シムリー』も二〇〇〇年夏号を最後に廃刊、同年、本社を高松市の郊外、綾歌郡の受注センター内に移転する。九〇年代後半を通じて、売上高は四〇〇億円に充たない線で推移し
ていたが、二〇〇〇年度決算は三〇〇億円、二〇〇一年度はついに二五〇億円を割った。し
かし、これは『イマージュ』認知を図るための大規模な広告投下(二〇〇〇年二月よりCM
開始)の影響などもあるだろう。
私はまず『イマージュ』事業本部本部長の前山耕平を訪ねた。彼はセゾン系の「良品計画」
から二〇〇一年に中途入社した、通販アバレルのベテランである。彼に『イマージュ』の成
長過程について訊ねてみた。
「はじめパンフレットみたいだったカタログも四号目でI〇〇ページを超えて、一七号目の
八八年に月指定予約販売システムに移行してます。それまではコーディネート・セットだっ
たんですが、バラ買いがお客様の強いニーズでして。頒布会方式のほうが受注があらかじめ
確定できますから生産計画は立てやすい。でも、何月以降不要という声も度々聞かれたよう
でね。むろん、現在でもシリーズ購入は可能ですよ」
神戸ファッションを全国にという『イマージュ』のコンセプト。それが東京ではなく神戸
であるのは、あくまでも本社に近い地の利という。いわゆる「芦屋のお嬢様」系の装いは、
中央のファッション誌の憧れでもある。だが、そんなブームも現在では下火ではないかと、前山はいう。
「『イマージュ』ブランドを確立させてきたし、今はあえて神戸発を強調はしてません」
最盛期、五〇四億円だった同社の売上げのうち、約二五〇億円は『イマージュ』が稼ぎ出
した。シムリー総体が落ち着いているなかで、その数字を現在も堅持している。発行部数、
春夏、秋冬の年二回各約一〇〇万邦に、店頭扱いがそれぞれ五〇万部、夏のスペシャル等を
含めて年間三七〇万部の部数は、最盛期ほどではないが、そのぶん浸透性・レスポンス度が
高まっていると見える。
MDには「通過型」と「持ち上がり型」があると、前山は言う。前者は、たとえば『JJ』
や『nonno』などの雑誌のような、ある年代にだけ支持され読まれるカタログを指す。
後者は読者の成長に合わせ、媒体自体が年を取ることを表す。すなわち、旧来の『シムリー』
をはじめとする、ニッセンなどのゼネラルはみな『持ち上がり型』に向かって失敗したわけ
だ。前山日く、「カタログシフトよりブランドスイッチを目指さないと」いけない。
「当社の調査では、いまだに女性のハ割方は店頭購入にこだわるという数字が出てます。残
り二割のうちの八割は全部のカタログを見ている。雑誌感覚なんです」

「限られたパイ」の中で多数派をいかにつかむか

新たな読者を取り込む=市場を拡げることに前山は懐疑的だ。確かに、ことファッション
に関しては、買物の際にテクスチャ(感触)にこだわってきた層が、そう簡単に通販に転向
するとは思えない。
「今は限られたパイの争い。どれだけ差別化ができるかでしょう。他社はそれでも価格と実
用性を訴求してくる。しかし、上手くコーディネートができないような代物ばかりです」
と言って、前山はリニューアル前の某社のカタログを持って見せてくれる。いくら安くてもこれは……と私も肯くほかない。片や『イマー
ジュ』は、二〇〇一年秋冬号よりイメージキャラ
クターに登川した山田優を、現在ではCM(以前
は藤木直人など男性タレントを起用)にも使い、
その誌面は一段とフレッシュな印象を与える。山
田は『CanCam』の専属モデルやカネボウ
製品のキャンペーンガールを務めるなど、このと
ころ女子大生を中心に人気急上昇中で、まさに旬を感じさせる。前山の分析は続く。
「私どもはより通過型なのです。つねに二〇代女性に読まれればいい。二〇代女性ってどん
どん減ってきてるんですね(と調査グラフを見せ)、九八年には1000万人いたのが、今
八五〇万人で五年後には七〇〇万人になる」
他社が、購買力があり通販慣れした三〇代に拘泥する隙に、この二〇代という世代を完全
につかもうという目論見なのだ。
ここで私は少々意地悪な質問をぶつけてみた。二〇代の感覚を三〇代、四〇代になっても
持ち続けられる人もいますが、そのあたりはどうお考えでしょう??
「もちろん、好き好きですから。しかし、対象より年長の読者が『JJ』などについてくれ
るのは、対象世代にぶれなく向けたセンスで、最新のものを取り上げて作られているからで
しょう。そこが大事なんですね」
私が前山を訪ねた二月中旬は『イマージュ』の春夏号が店頭に出たばかり。利用者の手元
の『イマージュ』にはちょうど「付僥が二〇くらいついたところでしょうな」と前山は笑う。
そこから四つから六つに絞り込んで、ぼちぼち注文が殺到しだすころとか。しかし、それも
インナーとなると「瞬間にダメになる」と前山はこぼす。

「チャラチャラしたのはまったく受けない。やっぱり、どこか保守的なんでしょうな、うち
のお客さんは」
念頭に『PJ(ピーチジョン)』などの今風のカラフルな下着類があっての発言だろう
が、取引先はアウターの一三七社に比べて、インナーは二〇社と約七分の一だ。餅は餅屋と
いうことか。客平均単価は二万から二万四〇〇〇円、Mサイズ受注が六〜八割と多く、その
あたりから『イマージュ』の平均的読者像がつかめてくる。
そのほか補完カタログとして、より神戸ファッションを追求した小冊子『神戸物語』や雑
貨の「fiMAGE」があるが、後者の最大の売れ筋は脱毛器だったという。同社キャッチフ
レーズの「二四時間、ちょっとおしゃれな時間」をエンジョイするにもいろいろ大変なのだ。

シムリーのブランド戦略

いくら総売上げの八〇%を占め、前年比一三〇%の伸びを見せるからといって、『イマー
ジュ』=シムリーではない。当初は社名を入れておらず、不当表記を避けるため
「produced by Simree」の文字を入れるようにもなった。
私は同社の歩みを確認に香川に渡った。話を聞いた管理部長の明賀正一は、証券会社の営業出身で、九三年の大証二部上場の際(九三年。なお二〇〇三年には東証一部上場を果たし
た)、クライアントであったシムリーと関わり、その縁で数年前に入社したという。生え抜
きではないが、少なくともかつてはアナリスト的視点で同社を見ていたことになる。
「初期段階はインナーを中心に扱っていたので、セシールさんとよく比較され、親戚同士な
どと噂されますが、面識はI切ないんですよ。こちらもあちらも元は小さな会社で、同じよ
うな発想で、また同時期に伸びたというだけで……」
明賀は「今期が当面の売上げの底になるだろう」というが、利益重視への転換がうまく捗
っているせいか、口調に暗さはない。その社屋は長閑な田園風景の中にポツンとあり、すっ
かり茶飲み話のようなリラックスした雰囲気にこちらもなってしまう。
「『シムリー』では家具雑貨等も扱い、それらが半分以上を占めてました。しかし、売れ行
き規模が小さく、特色も出しにくい、単価の割に粗利益率も低い
では、価格競争で太刀打ちできません。『イマージュ』も二年くらい前のほうが、ターゲット数が多いぶんパワー
はあった気がします。けれども、やがて、ジリ貧になるのは否めないので、ブランド戦略に
取り組み、小売店舗展開やウェブ上販売に取り組んでいったんです」
この動きのひとつが、比較的弱かったインナーを中心にした店舗展開である。2001年10月の1号店「イマージュショップ竹下通り店」を皮切りに、関東中心に現在全国11店
がオープン。二〜三年のうち六〇〜七〇店まで拡大したいという。
「紙カタログは現状維持で、それを波及させた相互補完的事業を考えているところです」
カタログ媒体にはそれぞれ特色があり、通販企業は「うちのお客様」という意識に駆られ
やすいが、顧客のほうは「ドライに使い分け」ていると明賀は言う。その見取図の中でより
明確に存在するためにブランディングが必要なのだ。
「一シーズンで何十万円とお買い上げになるお客様が全体の二〜三割、業績の七割を占める
んです。そうした方には例えば受注でも優秀なオペレーターがつきます。やはり、常連さん
は大事にしないと(笑)」
毎シーズン客数が落ちているとしても、その理由は分析してもそうわからない。だったら
「優先順位から潰していく」ほうが成功率は商い。新規客開拓にはコストがかかるが、幸い
『イマージュ』の場合、大量の広告投下により認知度は上がっている。

二番煎じの反省

『シムリー』廃刊前後、同社はカタログ通販に乗り出したユニクロのフルフィルメント(遂行)業務を受託し、評判になったが、この大改変期に、ティーン向けなど世代ごとの分冊ス
タイルもテスト導入した。ところが、読者の反応はあまりよくなかった。
だが、その中で二〇〇〇年八月に出した、やや大人向けの『ルブラン』が二〇〇一年二月
『ブランカフエ』と改題したことから定着。明賀は、『イマージュ』とはまったく別個に開発
された同誌に愛着が深いようだ。
「『イマージュ』卒業生がシフトするようなものは狙っていません。リレーションシップ戦
略は採ってますが、事業部も東京に置き、センス的にも独立しています」
ページをめくれば、価格的には無理のないものが並ぶものの、確かに『イマージュ』世代
がそのまま地続きで着るには、「脱皮」への気持ちが必要なほど、シックな装いに重点が置
かれている。しかし、ここがポイントで、見え見えの『イマージュ』の受け皿をあえて作ら
なかった点が、かえって功を奏したようだ。顧客だって年齢を経るに従って相応の変身をし
たいもの。それをメディア剥が用意するのも雑誌の方法論である。「コンビニでの販売もコ
ストパフォーマンスは商い」と明賀が言うように、写真集的なイメージも好評で、最初の販
売用四〇万部は瞬く間に完売したという。
シムリーのこうした分社化傾向が時代の潮流なのだろうか。受注に関しても適宜アウトソーシング(外注)を利用すると明賀は認める。
「東京などで全部自前でやれば、簡単に有能なオペレーターが集まるけれど、やはりコスト
的に大変。パートでそこそこの水準の人を集めるのは地方では難しく、問い合わせ部門は外
注にしています。業界全体では「すべて自前」が蔓延してましたが、逆に(外注は)『身軽
でいい』という意見もある。物流すら外へ出す傾向は強まってますね」
DMやチラシもリピート客獲得にはいいが、費用対効果が悪い。「無料置き」は入口とし
ての大きな目的は充たすが、あまりに無駄玉が多いのだ。そんな過度な低価格競争が終息し
た現在、そこからいち早く抜け出たシムリーだが、商品価格をこれ以上上げるのは不可能。
メーカーとの繋がりに頼らず、中国に七社の縫製指定工場を置くことで一貫した生産管理体
制も敷き、品質問題をようやく克服できたという。
「これからは米エキスを主成分とした化粧品シリーズ『ライスフオース』をコアなアイテム
にしたいんです。地元の勇心酒造という、今はほとんどお酒を造っていない造り酒屋がある
んですが、そこが原料を作っています。期間をかけモニタリングしましたが、いい結果が出
てるんです。この分野では後発組ですから、イメージ重視では入っていけない。一般に化粧
品は商品原価率が低く、そのぶんを広告宣伝にかけるため価格設定が難しいのですが、それも極力抑えて口コミ的に売っていきたい」
やはり化粧品はそれほど魅惑のコンテンツ。自社開発で本当に「売りたい」ものが作れた
のなら、その挑戦の意気やよしとしよう。ともかく、カタログ専業の生き残り闘争はこれか
らいっそう苛烈になっていくに違いない。

″非都会的″なセンスで快進撃「ベルーナ」

総合力タログ通販がほぼ横並びでマイナス成長という中で、唯一気を吐くのが埼玉県上尾
市に本拠を置くベルーナだ。九三年の三月期以来二〇〇三年同期まで一一期連続で増収増益
を達成。二〇〇三年度は1051億円を売上げ、前年比一六・八%の伸び、二〇〇四年三月
期は一四・一%の伸びを計画している。また、二〇〇〇年三月には東証一部上場を果たした。
ベルーナの特徴は新聞折込による顧客開拓。物販とマーケティングを兼ねた検証的手法で
経費を極力抑えている。九九年秋からはチラシの判型もB4からB3に変更し、その面積拡
大に見合うに十分な売上げ増加を果たした。それが比較的低迷していたカタログ顧客獲得に
役立ち、また、食品頒布やファイナンス事業なども二桁増で推移し、向かうところ敵なしの快進撃を続けている。一九六八年、当時弱冠二三歳の社長・安野清が、独力で印鑑の訪問販売を始めたのがベル
ーナの興りである。最初は地元上尾を自転車で回っての営業だったが、五年後には社員も10人を擁し、有華堂という名で法人化。一〇〇人規模の会社となったさらに五年後には、独
立した販売員に製品を卸す立場となり、事業を拡大する。
そこから通販のヒントを得て、八三年には折込チラシを通じて手芸品の頒布会を始めた。
最初のアイテム「刺し子セット」が大当たりし、食器、エプロンなどの軽衣料と手を拡げて
いく。同じ年、アパレル通販に進出。八六年には基幹カタログ『ベルーナ』を発行している。
これは安野の愛犬の名前をもじって付けたものである。
全国紙を使って年間四億〜五億ともいわれる枚数のチラシを撤いた同社は、たちまちター
ゲットである中年主婦層の厚い支持を得た。チラシは投網のようなもので効率は悪い反面、
集客力は商い。喩えは悪いが、かかった魚をカタログで餌づけすれば、後は購入者だけにカ
タログ送付をすればいいわけだから、実際的な費用対効果は高く、中身の濃い顧客リスト作
成も叶う。そして、同社は九〇年よりカタログ名をそのまま社名としたのだった。
私がなにより『ベルーナ』に圧倒されるのは、他に類を見ない″非都会的″なセンスだ。
カタログの冒頭には、いきなりフオーマルウェアやパーティードレスなどの大判の写真がキッチリと並ぶ。おそらく日本の大多数の人にとっ
ては、これが現実なのだと否が応にも思わされる。

「一勝九敗」の精神

同社を訪ね、そうした独特のセンスをどう表現
すべきか苦心していると、相手をしてくれた企画
本部長の宇野知典のほうから助け船を出してくれ
た。
「派手、でしょ。ドロ臭いというかバタ臭い……お客様のニーズがそこにあったんです。そ
れも折込からDMという、売れるものの追求の中で浮かび上がってきたもの。春・夏・秋冬
を基調(各三五〇〜四〇〇万部)にスペシャル(盛夏・冬)が二冊の発行ペースです」
販売チャネルを拡げるにあたって、徹底的なデータの仮説検証があるようだ。はじめは同
業他社の見様見真似で取り組んだ雑貨や食品カタログにも、「独自色の錬金術]と評される、
その手法が活きてくる。
「担当者制で個人の数値責任を明確にしてます。売れ筋拡販のためには短期間の重複掲載にプラス、折込パンフ類のダメ押しが有効。そうすると、一アイテム半期で三億円売上げるな
どということもざらに出てくるんです。寝具なんかもよく売れますよ」
と話すのは経営企画室マネージャーの中西信昭だ。
少品種大量販売を旨としており、総じてカタログは薄手だ。だが、ヤング向けファッショ
ン媒体rRyuRyuj(年二回)は、ファッション基地・横浜に本部を置き、コンビニや書店
売り(年四回)もしている。こちらは満を持しての出版、という業界の評判もあるが?
「いや、事業としてはまだまだ」(宇野)。なぜ横浜なのかといえば「たまたま自社物件があ
ったから」(中西)という。現状では在庫リスクを避けて予約頒布制。テストマーケティン
グの段階を出ないようだ。
「四〇代から六〇代に専念していたのは、店舗を含めた流通業界の状況判断をしていたため。
この世代の(購買)成長力は降下しつつあるとはいえ、今でも健在です」(宇野)
そこから得た八〇〇万感のリストから、外部提携も視座に入れ、
「衣食住遊を離れたサービス面の充実が課題。例えば、会員向けのローコスメ(低添加化粧
品)の『OZIO(イタリア語で「なにもない」の意)』も分社化し軌道に乗せてます」(中西)その事業所も所在地はイメージ重視で銀座に置く。また、「商品を売るなら、お金も売る」
と金融にも取り組む。
「つねに収益の多様化を図っている。総合でありながら専門の集合体。うちは新しいスタイ
ルの通販会社だと思いますよ」
中西は、新しい事業には「一勝九敗」の精神で取り組むという。会社案内を見ると「健全
なる冒険」が社是となっているが、ともかく、立志伝中の人物、安野のたくましき商魂が
脈々と息づいて、数ある通販企業の中でもすこぶるタフな会社という印象が強烈に残った。

高付加価値追求のMD「ソニー・ファミリークラブ」

次はベルーナとは対極の「洗練」をウリにした老舗通販・ソニー・ファミリークラブ(以
下FC)をご紹介しよう。同社は、一九六八年にソニーと米CBSレコードが提携し、CB
Sソニーが生まれたのを契機に、七一年三月、CBS・ソニーFCとして産声を上げている。
東京・市谷の瀟洒なオフィスでの取材には、二〇〇三年二月より新社長に昇格した遠藤育
雄が応じてくれた。
「アメリカのCBSがコロンビアハウスという会員制でレコードを販売する部門を持ってましたので、その影響でしょう。当初はクラシックやイージーリスニングの10枚組セットな
どを自社音源から制作販売してました。
当時はちょうどレコードビジネスの変革期。CBS・ソニーは高品質のソフトの充実を回
る一方、販売店との関係を委託契約制(無条件の返品が可能だったのを、一定の返品枠を設
けての買取制)にし、また、LPレコードをシールパックにして試聴できなくするなど、ソ
フトの価値を高める仕組み作りに励んだ。それには先代のソニー会長で、CBS・ソニーニ
代目社長である大賀典雄の存在が大きい。そして、こうした動きがソニーFCの通販全般へ、
ブランディング意識として結実してくる。
九一年、親会社がソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)と社名変更したの
に伴い、ソニーFCとなり、九六年には通販オリジナルのCD全集を主に取り抜うAV(オ
ーディオ・ビジュアル)部門(ソニー・ミュージック・ダイレクト)と、全国の販売代理店
を通じて同社オリジナルのAVソフト等を扱う訪問販売部門(SME・ファミリーズ)を分
社。SMEが二〇〇〇年一月でソニー本社の完全子会社化したことに伴う機構改革で、現在、
独立系事業の統括会社として生まれたソニー・カルチャーエンタテインメントの傘下にある。
今やソニーFCは「世界の一流品・こだわりの逸品を紹介する」という理念の下、アパレルをはじめ服飾雑貨、アウトドア用品、家具、食器、ホビーなど多岐にわたるスグレモノを
カタログやDM、直営ショップを通じての販売に専従する会社だ(業績は非公開だが、二〇
〇二年度の売上高は推定一八四億円)。
遠藤が入社した当時は、ワーナーパイオニア(当時)の音源協力を得た『フオークヒット
大全集』などが大ヒットしていた。
「レコードがまだ高い時代だったでしょう。当時でLPが二五〇〇円くらいした。全集もの
は、いろんな曲を聴きたい人には単なるベスト盤とは収録曲の数が違ったし、歓迎されたと
思います。レコード通販自体は、日本リーダーズダイジェストがクラシックの名曲数で先鞭
をつけています。『コンサートホール・ソサエティ』というマイナーなレーベルも、昭和四
〇年前後に一枚売りをしていましたが」
その後、クルプス社のコーヒーメーカーやオイスター社のスーパーグリルなどの生活用品
も手がけ始めるが、SONYブランドを掲げる以上、商品の社内チェックにも厳しいものが
あったとか。
「そのころはまだ舶来品信仰があり、輸入品目が多かった。そこで『夢のある商品を』と、
銘陶ウェッジウッドやロイヤルコペンハーゲンの食器なんかも、通販ではうちが初めて一般に紹介したんじやないかな」
八〇年くらいからアパレル展開も始め、より多面的展開が図られた。八三年のJADMA
設立に象徴される業界刷新の気風に呼応し、銀座に「ライトアップ」ショップー号店を開店。
と同時に、基幹カタログ誌rLight upJIを創刊。アバレルの扱いもさらに増えたという。
「その後台頭してきたメーカー型の通販会社の薄利多売の方法論に、より小売業型の我が社
が対抗するには、優れて物欲を喚起できる商品を問わないと。国内に目を向け、技術を追求
した製品をピックアップするMDは無論、告知も一つだけの商品で新聞全面を飾ったり、ソ
ロDMを多用するのはそのためです」
「Light up」の売れ筋には、「ランセル」のオリジナルバッグなど女性向けの商品がある一
方で、ベッカー社(ドイツ)の革小物の逸品など男性ブランド品も充実している。それも経
済的にゆとりのある中高年以上が対象だが、セレクトにオジサン臭さはない。顧客層のバラ
ンスの取り具合が絶妙といえるだろう。
自社開発での価格勝負は、そもそも会社設立のコンセプトからして違い、MDも代理店を
通じてがほとんど。だが、遠藤日く「見本市での情報収集や職人との直談判に、社員が直接
海外に赴くのは日常茶飯です」。しかし、同社は商社ではないので、それらの品もあえて代理店を介在させ、職分を明確化するのだと言う。
また、日本の職大技が堪能できるのも同社通販カタログの特徴
で、九八年に前社長直属のプロジェクトとして創刊した『ゼクウ』
には、そんなこだわりが満載されており、読み物としてもレベル
が高い。
「ことにベテラン木型職人でシューフィッター日本第一号でもあ
る、菊地武男の靴シリーズは好評で、もう何足も出ています」
これは朝目新聞の日曜版などのカラー広告でもおなじみだろう。
最近では、世界的ウィスキー評論家・土屋守監修の「スコットラ
ンドシングルモルト紀行12ヵ月」など、実際に製品を味わいなが
ら、テクストやビデオでその蔵蓄を満喫できる、新たな頒布スタイルも提案している。また、
蔓でバスケットや飾りを編んだり、指編み技術を素材を提供した上で教える、通信教養講座
「一芸倶楽部」シリーズなどもあり、従来の通信販売の範躊にはないビジネス展開が評判を
呼んでいる。
「通販で買わない人にいくらアプローチをしても仕方ない」

そう語る遠藤の口ぶりに「セグメント通販の雄」としての誇りが感じられた。

まず記事ありきの「マガログ」「カタログハウス」

ここまで、様々な総合力タログ通販を見てきたわけだが、このジャンルだけで、おそらく
一冊の本が細めるくらいバラエティに富んでいる。事実、この分野が急成長した九〇年代前
半は、その利用指南書がたくさん生まれた。
カタログ通販各社それぞれの「立場」で顧客像を模索するうち、ユニークな立ち位置を見
出していったが、とりわけ個性的なのは、『通販生活』のカタログハウスに違いない。そこ
で、本章の締めくくりとして、従来のカタログ通販の概念をガラリと変えた同社を取り上げ
てみることにする。
春夏秋冬、年四回の発行で「暮しの道具と暮しの流儀を考える」がモットー。二三〇ペー
ジ超の厚みで、前半は確かに商品紹介なのだが、後半は純然たる記事が掲載されている。そ
れも普通の商業誌では扱いにくい、エコロジー問題など硬派なテーマが並ぶ。
試みに二〇〇二年秋号を開いてみる。巻頭は椅子特集で、表紙はコメディアンの坂田利夫。
「総理の椅子はいくらで買えるか。」とコピーがついている。彼があの鈴木宗男代議士にそっくりなための起用だろう。
「この椅子は、ドイツのヴィトラ社という家具
メーカーの製品で、私どもの調査では新築の官
邸で購入された首相の執務椅子と同じもの。官
邸事務室に問い合わせたところ、裏付けはもら
えませんでしたが、九九%確信があります。お
値段は五回万円、『通販生活』でどなたでも購
入可能です(笑)」と語るのは、『通販生活』読
み物編集長・武茂孝志。
同誌の発行部数は約一五〇万部。そのうち書店売りは二〇万部ほどで、それだけの人がお
金を払って読んでいる。有償化することで通販マインドの高い顧客を呼べる、という囲い込
み戦略もあるのだろうが、実は商品は買わないが読むだけという人も多い。
フリーのテレビブロデューサーとしてドキュメンタリー番組を制作していた武茂は、
「商品を選択してもらう前に企業を選択してもらう。『通販生活』は『カタログハウス』と
いう企業イメージを明確に伝えるための道具だと思います。」と、憲法第九条問題を採り上げるなどの、大胆な編集姿勢の根拠を語る。
「読み物のテーマ自体は、他社の一般誌と比べても、それほど目新しいとは思いません。憲
法第九条を特集した時、様々な媒体で取り上げていただきましたが、それはカタログ雑誌が
特集したからミスマッチで新鮮に映っただけ。通常の雑誌のように広告ページがない分、何
でも気兼ねなく意見が言えることも本書の強みだと思います。時代のニーズなんてことで読
み物を構築していたら他誌と同じ物が出来上がってしまう。本誌の読み物が目指すのは、
『他誌とは違うヘンな雑誌』なのかもしれません」
恐らくは現在、日本で最もりベラルな雑誌『通販生活』に触れるたび、かねてから私は、
その「哲学」の所以が気になっていた。
「商品(ページ)でもコピー中心。コピーが売り物なんです。情報公開も積極的で、例えば、
ダイオキシン発生源の塩ビを使っていないはずなのにそれが検出されたら、すぐ訂正の社告
を出す。二〇〇二年から自前で商品テスト室も設け、その辺徹底してます。やはり、社長の
言うように『ちょっぴり異端派』の会社ですよね」

表現媒体としての通販

この「社長」というのが、通販界では伝説的な人物の斎藤駿である。私は斎藤に会って直
接話を聞きたかったが、同社広報室長の松尾隆久によれば、本人の考えから、一般誌などの
取材は「ほとんど受けない」とのこと。そこで松尾の証言や様々な資料から同社の歩みと斎
藤に関する歴史を振り返り、その哲学の源泉について考えることにした。
斎藤は一九三五年東京生まれ。早大文学部露文科を出て、ノーベル書房に勤務の後、東京
こども教育センターという会社を興し、幼児通信教育事業を細々と始めた。それが、当初の
DM主体のマーケティングから、新聞雑誌の広告掲載に手法を変えて、驚異的な大化け(宣
伝にはあのカバゴン先生こと、教育評論家の阿部進も起用)を遂げる。通信教育で地道に生
計を立てながら、文芸評論を書いていくつもりだった斎藤の人生の目算も狂うほどだった。
通販そのものに開眼した斎藤は、七六年に日本ヘルスメーカーを設立。一世を風廓したオ
リジナル開発の室内ランニング器「ルームランナー」を発売する。だが、その人気にもすぐ
翳りが出て、「毎年なにかヒット商品を生まないと会社が潰れる」と模索を続け、二年後、
一つの結論へと辿り着く。それは従来の「商品を見せて売る」カタログから、「いいものを
紹介し、その情報を読んでもらう」カタログヘの発想の転換だった。こうして八二年、社名をヘルスに改め、『通販生活』を創刊。八七年には現社名とした。
この天才編集者・斎藤が最も重視するのが「商品の最良の語り手」=「使っている人」に
よるロコミだ。ゆえに、『通販生活』の商品記事ではまず利用者の感想が前面に出る。この
「商品販売の最大の説得者」を引き立てるために雑誌があるかのようなページ構成にはあざ
とさは微塵もなく、いつも感心させられてしまう。
また、斎藤は言葉へ非常なまでにこだわりを見せる。
「どんなに売れた誌面であっても流用しない。常に新しい誌面を作る」(松尾)
「四〇代後半がコアな読者層」。いろいろな消費体験を持つ「違いがわかる」世代だ。その
人たちに向け「明確なカラーが打ち出せているかどうか」が問われる。
「平均像を出す必要はないんです。情報に賛同していただけた人にだけ売ればいい。売りた
い気持ちがどれだけこめられるかが大事で、よその同業者や量販店の売れ筋は埓外なんです」
(松尾)

地球と生物に迷惑をかけない商品

松尾は同誌で″有名人が愛用しています″と商品を紹介するにも、パターンは二つあるという。まずは編集部側から、「一度使ってみて下さい」と半年くらい実際に商品を使用して
もらい、本当によいものだとその人が思ったなら、モニターとして出演の交渉をするケース。
もう一つは、実際にその人が愛用していて自ら進んで出てくれる場合。いずれも「破格のギ
ャラで応援団を買って出てくれる」とか。それこそ斎藤が常に説く「売りたい魂」が、いい
ものをみんなに「紹介したい魂」へと見事に伝播したということだろう。
この『カタログハウス』ファンが増える背景には、先ほどの武茂編集長の言う、あえて憲
法第九条の是非を読者投票で問うような挑戦的な誌面づくりと、加えて、環境問題への取り
組みが半端ではないことも挙げられる。
同社の『商品憲法』と題するパンフレットにはズバリ「商品とは地球である」との副題が
つく。ページを開くと「できるだけ、『地球と生物に迷惑をかけない商品』を販売していく」
などの九ヵ条が掲げられている。実用雑貨を少数限定で援うからこそ、これだけの配慮がで
きるのだが、配送も、ヤマト運輸とともに、鉄道併用のモーダルシフトにいち早く取り組ん
でいる。
また、同社取締役で商品編集長の高遠裕之は「幸田シャーミンのエコステーション」とい
うHPでの取材にこう答えている。

「うちからしか買えないモノを売ろう、そういうモノを探してみるとヨーロッパの製品が多
かった。(略)ヨーロッパのモノづくりの基本、高品質で長く使えるものということがわか
ってきました。ヨーロッパでは小手先やイメージでエコロジーを標榜し、お客様にうけよう
とすることを[green wash」と言うそうです。絶対にそうなってはいけない(略)。われわ
れは、消費者の代表者だと思っているんです。今の時代というのは、非常にモノも情報も流
れているけれども本当に消費者にとって大事な情報はないんです」

「もったいない課」の設立

日を改め、広報・松尾の案内で東京・代々木にある同社地下の「カタログハウスの店」を
見て回った。同店は九二年のオープンだが、後述するリサイクルショップ「温故知品」開店
と同時期に本社に移転した。ちょうど売れ筋のベストー○○が載る春号が出たころだから、
入口から誌面通りの陳列がしてある。松尾日く「『通販生活』の立体化」。季刊の同誌に合わ
せて年間四〇〇〜五〇〇アイテムが入れ替えで展示されるそうだ。
ここと、九六年開店の大阪店とで、全体の売上げの一割を担っている。また、このところ
大阪店の売上げが伸びており、店長の三木範夫によれば「大阪人はほんまに疑い深い、ちょっとやそっとじや納得しません」(HP「関西の達人」より)とのこと。商品を実際に手に
したい層の存在が大きいようだ。
さて、注目の売れ筋ベストーは、イタリア製のメディカル枕。七年間でニハ個も購入し、
人に贈りまくっている京都の女性もいるという。
ともかく、まだ肌寒い時期(二〇〇三年二月初旬)の平日というのに、店内の混みようは
尋常ではない。
「雑誌を見て、必ず買おうというものは決めておられても、どうしようかと迷われてるもの
や、なんだろうと気になるものを確認にいらっしやるみたいですね。ま、散歩がてら」(松
尾)
思わず吹き出してしまったのが、「通販生活のハムレット」と銘打った「売るべきか、売
らざるべきか」コーナー。野菜洗い器や野菜スープメーカーなど、確かに「?」な商品が並
ぶ。後者など、要は粗く切った材料を入れ、粉砕しながら煮込むことでわずか三〇分で立派
なポタージュができてしまう。
東京・中野の「温故知品」にも足を伸ばした。『通販生活』で人気の商品のセコハンがこ
こで手に入るのだ。店長でエコサービス室課長の皆川清勝が、明るい六階建ての店内(売場は二階まで)を案内する。
「中古に限らずクーリングオフ、型落ち、在庫処分……様々な理由でやってきた商品を清
掃・修繕を施して販売します。売値の基本は定価の半額、状態によって三〜七割引きの間で
す。梱包の有無は買取り価格に響きません。九九年の初年度は売るものがなくて(笑)、二
〇〇二年の五月まで他社購入品も抜ってました。それでかえって、二〇〇一年は展示できな
くなるくらい商品が溢れてしまって……」
中古品通販への期待は高く、ウェブで検討中だという。
「二〇〇一年の後半に人気商品のみオー
クションを試験実施してみましたが、売
上げからのドイツ国際平和村への寄付を
呼びかけていたので、ほとんど元の価格
に近い値段で売れましたね」
顧客もまた意識が高いのだ。カタログ
ハウスは二〇〇二年度からほぼ全商品に
三年間無料保証をつけている。同店で販売される中古品ですら一年の保証がつく。九七年から「もった
いない課」を設立。現在では同店内にあり、メーカーが修理を
受けつけなくなった商品などの修理をほぼ実費で引き受けてい
る。
「すでに部品がない製品は同様のものを部品メーカーから入手
するか、時には作っちやいます。スタッフは五人。電子、電機、
機械……それぞれ定年を迎えられた年代のエキスパートで、長
くソニーサービスにおられた方もいます。そりやあ、器用なも
んですよ」
そのうちの一人、境洋治は六〇歳。同課のスタッフとなって
約二年だという。長く家電店の修理部に勤め、自分で店を経営したこともあるが、ただ売る
だけは自分の性に合わなかった。
「今はすぐ買い替えてしまう人が多いけど、ずっと修理にこだわってきたし……。簡単に直
るのに捨ててしまう人も多いんですよ」
そう言いながら、彼は鮮やかな手並みで、勤かなかった手動ミキサーを再生させた。

(注) 一九六七年六月にドイツ市民の手により発足した、紛争地域や危機に瀕した地域の(特に治療の
必要な)子供たちを助けるボランティア組織

文明批評としての通販

現在、三六〇億円を売上げるカタログハウスだが、斎藤は「もっと抑えるべき、と常に言
う」(松尾)。自慢の顧客サービスが疎かになるからだ。
「本来、日本人は『いいものを長く使いたい』と倹約を美徳としてきた。売る側もアフター
サービス込みで売っていた」(松尾)
『通販生活』が紹介するアイテムの中には、探せばディスカウント店でも見つかるものもあ
る。だが、問題は買った後のアフターケア、トラブル時のサービスだ。商品を通じての顧客
との関係性の構築と維持こそがビジネスという認識に立って、その点のケアが同社は徹底し
ており、三〇年も修理部品供給する商品もある。それが大量消費時代に忸怩(じくじ)たる想いを抱え
る、ベテラン主婦層の琴線に触れたのだ。もはや『通販生活』は彼女らの生活実用誌になっ
たといっていい。 まさに現代版『暮しの手帖』というところだが、斎藤は彼が個人的に発起人になった「盟約5」のHPに寄せた『売るモノがなくなった』と題したコラムで、かつての『暮しの手帖』
の名物編集長だった花森安治の言葉を引いている。
「電気メーカーも、このごろは、売るものがなくなったとみえて、ヘンテコなものを売り出
しはじめた。電気米とぎキカイとか、電気バサミとか、電気カツブシ削りとか、すこし前に
なるが電気オカン器とか……。こういう広告をみていると、ヘ夕な漫画よりずっとおもしろ
い。軍隊か大工場でもあるまいし、一日せいぜい一食か二食の米を、なにも電気でとがなく
てもちっとも困らない(以下略)」
そして、この文章が発表された六一年の段階ですでに「作るモノはもうないよ、必要なモ
ノは出揃って」いたのだと説明する。それでも「会社の『成長』、収入の『成長』のため」
不必要なモノでもムリヤリ作り出し、売りつけていたと。しかし、ゼロ成長の時代を迎えた
今、「『成長』を止めてもやっていける社会をつくるのが、本当の構造改革だと思うんだけど」
と語調は柔らかくも強く言い放っている。斎藤は佐藤圭というペンネームでミステリー評や
映画評も書く名文家だ。
「春の特大号を除いて一号当たりの取り扱いアイテム数はせいぜい一二〇点前後。他誌は最低でも七〇〇〜八〇〇品目はある。ものが溢れているといわれる昨今、一ジャンルー商品
(年刊の『ピカイチ辞典』では三七一ジャンル)に絞り込んで、その目利きという立場を評
価してもらってるんです」(武茂)
そんな厳しい眼差しで選ばれた少数精鋭のアイテムを、実際に販売するのが同社の存在意
義。なぜなら、現代社会において消費を切り捨てにはできない以上、誰かがよいものを提供
していかねばならない義務があるから。斎藤の著書や発言を読むと、そんな想いが伝わって
くる。
私が幼いころ、近所の商店街には活気が溢れ、店主たちそれぞれがよき消費アドバイザー
でもあった。
「そのアジ、ちょっと鮮度が落ちてるけど焼物なら十分だ、半額でいいよ」
と魚屋が言えば、八百屋は、
「悪天候続きでキャベツは高いって。今日のところは油菜にしときな、安くて旨いよ!」
私の母親世代は彼らの見極めを信用し、実際「値ごろ感」のある買い物をしていたはずだ。
しかし、大型スーパーが安さと便利さと「不干渉」という時代の気分を錦の御旗に彼らを駆
逐してしまった(そういうスーパーもコンビニという、より「個」にシフトした販売形態に侵食されてしまったが)。

つまり、『通販生活』は無言消費の最たる通販に吟味役として乗り込み、傍目には要らぬ
お節介といわれかねない「もったいない」主義までオマケでつけてしまうのだ。高くて味も
悪いキャベツを売りつけたんじや、結局、後々の商売に響く。だから、どうしても欲しい人
のために置いてはおくけど、絶対に勧めない。この「必要なものしか売らない」という鉄則
を昔気質の商人はみな持っていた。そんな「仁義」が新しい装いで、カタログハウスのビジ
ネスには溢れている。

日本第一号
日本で郵便制度が発足したのは1871(明治4)年、「郵便」という
言葉自体の考案者でもある当時の駅逓頭、前島密の提唱による。通
販の本格的な始まりは、この郵便の誕生と軌を一にしている。
ただ、通信販売という用語は明治期には見受けられず、英米の
MaiI Orderは「郵便注文営業」と直訳され用いられていた。通信販
売の言葉を創案したのは、大正初期の「今日は帝劇、明日は三越」
のコピーで有名な三越百貨店の宣伝部長・浜田四郎といわれ、1908
(明治41)年刊の「商業火辞書」の補遺にそれは見られる。
日本での通信販売は、明治初期、津田塾女子大の創立者・津田
梅子の父としても知られる、農学者・津田仙が始めた。 1837 (天保8)
年に下総国佐倉藩(現千葉県佐倉市)に生まれた津田は、幕臣家
の養子となり、'67(慶応3)年に渡米、西洋農法を見聞した。゛73(明治
6)年にはウィーン万国博覧会に出席、農業の近代化と人材育成の
ため、'76(明治9)年には学長社農学校を創設した。
この年津田は、雑誌「農業雑誌」を創刊、その第1巻第8号で米国
産トウモロコシの種を販売した。これが日本の通信販売第1号である。
その当時の日本は、農業に重きを置く、典型的な第一次産業国家。
農村人口は都市人口を這かに凌駕しており、農村を対象とした商い
は非常に有望だった。だが、当時の農業技術は、米栽培以外は未成
熟な段階。そこで津田は、痩せた土壌でも大粒の種が育つ米国産
種苗が、周期的に襲う飢饉に苦しむ農家にとって救世主になると考
えたのだった。
だが、種苗通販は日清戦争の景気をピークに、明治30年代にはす
ぐ衰退期に入ってしまう。なぜなら、空前の隆盛のうちに悪徳業者が
生まれ、不良品を売りつけるなどして、業界の信用を著しく傷つけた
からだ。
なお、草創期の通販史については、黒住武市著「日本通信販売発
達史」(同友館、1993年刊)が参考になる。

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