目次
うつ病とは?
「うつ病」と「うつ状態」のちがい
だれもがときには憂うつになるものです(こうした気分のことを、専門用語では「抑うつ気分」と言います)。恋人と別れたときなどには、ショックを受け、涙を流し、食欲はなく、腹が立ち、イライラし、夜も眠れず、気難しくなり、不安を感じるものです。
ふつう、こうした気分は数日もすれば消えてしまい、ふだんどおりの生活を送れるようになります。「うつ状態になる」、「落ち込む」、「なにもかもいやになる」、「気がめいる」などは、こんなときに使われる言葉です。けれども、このようなうつ状態は、医師が言うところの「うつ病」ではありません。うつ病はもっと深刻な病気であり、少なくとも2、3週間は続き、心と体の両方に影響をおよぼします。これといった理由もなく始まることがあり、ときには命にかかわることもあります。いわゆる「臨床的うつ病」の症状の多くは、日常的なうつ状態とよく似ていて、明確に区別することができません。ただ、うつ病の症状の方が、重く、長続きすることが多いよ
うです。 経験的に言えるのは、「憂うつで、生活全般に支障が出ている状態が2週間以上続くか、自殺まで考えるようになったら、助けを求める必要がある」ということです。うつ病は治療できる病気であり、いつかは気持ちも晴れるのだということを忘れないようにしましょう。うつ病の患者さんの多くは、かかりつけ医の治療を受けています。医師は、「うつ病になるのは弱さのせいだ」などとは思いませんから、心配することはありません。彼らはこれまで多くのうつ病の患者さんを診てきており、病気を診断し、治療する技術を身につけているのです。薬を処方するだけでなく、セルフヘルプグループ、カウンセリング、精神療法、リラクゼーション法などにかんする情報もくれるかもしれません。ストレスを軽くする方法や、愛する人の死などの喪失体験から立ちなおる方法についても助言してくれるかもしれません。かかりつけ医は惰報の宝庫なのです。
とはいえ、かかりつけ医にそんなことを打ち明けるのはいやだという人もいるでしょう。そういう人は、友人に打ち明けてみましょう。多くの人がうつ病に悩んだ経験をもっていたり、うつ病に悩む人を知っていたりすることに、あなたはきっと驚くでしょう。彼らはあなたの力になり、助言をくれるかもしれません。あるいは、無言で耳を傾けているだけかもしれません。話を間いてもらうだけでも、あなたの気分はすいぶん楽になるはずです。
うつ病になる人の数は?
多くの偉人が、うつ病に悩まされました。エイブラハム・リンカーンもヴィクトリア女王も、うつ病に悩んでいました。ウィンストン・テャーチルは、自分のうつ病を「黒い犬」と呼んでいました。
多くの作家や俳優が、うつ病に悩まされました。コメディアンのスパイク・ミリガンは、自分のうつ病について、『うつ病とその切り抜け方』という本を言きました。
うつ病にかんする事実
成人の5人に1人以上が、一生に一度はうつ病にかかります。
あらゆる年代の人がうつ病にかかります。
うつ病と診断される女性の数は、男性の2倍にのぼります。
うつ病に悩む人の割合は、この40年の問に増えてきています。
その原因は、現代人の生活そのものにあるのではないかと言われています。多くの人にとって、世界はますますストレスに満ちたものになってきています。このストレスがうつ病を引き起こすのです。世界では離婚率が増加し、犯罪件数も増加しています。あ
厚生労働省「地域におけるうつ対策検討会報告書」では、日本人の15人に1人が一生に一度はうつ病にかかっており、そのうち病院を受診したのは4人に1人にすぎないとされています。国立精神・神経センターが行った小規模な調査では、フ人に1人が一生に一度はうつ病にかかっているという結果も出ており、医療機関で治療を受けている患者数のデータと照らし合わせると、病院を受診したのは10人に1人にすぎないことになります。る人は長時間労働に苦しみ、またある人は失業に悩んでいます。人生を重荷に変える要因は無数にあるのです。
住んでいる場所も、うつ病へのかかりやすさに重要な影響をおよぼしている可能性があります。ある研究では、大都市のスラム地区に住む人は、スコットランドのヘブリディーズ諸島に住む人の2倍もうつ病にかかりやすいという結果が出ました。はっきりした理由はわかりませんでしたが、うつ病へのかかりやすさに環境が大きく影響していることは明らかです。とはいえ、悪い知らせばかりではありません。うつ病の原因がなんであれ、この病気は効果的に治療できるのです。うつ病になって治療を受けた人のほとんどが回復しているのです。
キーポイント
■抑うつ気分が長く続き、生活全般に支障が出るなら、それはうつ病と考えられます。
■うつ病は、めすらしい病気ではありません。
■うつ病は、効果的に治療できます。
うつ病とはどんな病気なのでしょうか?
心と体の病気
うつ病は、心と体の病気です。ほとんどのうつ病の患者さんに身体症状と精神症状の両方がみられますが、その症状には個人差があります。どの症状が強めに出るかは、人によって異なります。症状の訴えがまったくなく、行動だけが変わってくるという人もいます。わたしが治療した患者さんには、それまでは模範的な市民だったのに、うつ病にかかってから万引きをするようになったという女性もいました。
うつ病の症状
うつ病には、さまざまな精神症状と身体症状があります。ある人の症状が、別の人の症状とはまったくちがっているということも、めずらしくありません。
精神症状
・抑うつ気分
・それまで楽しめていたことへの興味の喪失
・不安
・感情の麻痴
・悲観的な思考
・集中力や記憶力の低下
・妄想
・幻覚
・自殺衝動
身体症状
・睡眠障害:なかなか寝つけない、早朝覚醒、週眠
・精神運動制止
・食欲の六進または低下
・体重の増加または減少
・性欲減退
・疲労感
・便秘
・月経異常
精神症状
抑うつ気分
「うつ病」という病名とは裏腹に、この病気になった人のすべてが憂うつになるわけではありません。不安にさいなまれる人もいれば、なんの感情もわかなくなったと訴える人もいます。気分の変化がなく、説明のつかない身体症状や行動変化のみを訴えて病院に来る人もいます。うつ病の人の抑うつ気分は、なにかに落胆したときや嫌気がさしているときにだれもが感じる憂うつさにくらべてはるかに強烈です。悲しみ、むなしさ、喪失感、恐怖感がいつまでも続きます。
ある人はこの状態を、「頭の上に雲がかかっていて、それが生活のすべてを支配しているような感じ」と表現しました。
日内変動
中等症から重症のうつ病では、抑うつ気分は朝にひどく、日中はわずかに改善することが多いようです(消え去ることはありません)。これを日内変動と言います。
快感消失
抑うつ気分があると、なにをしても楽しむことができません。それまで好きだったことへの興味さえなくしてしまうことがあります。なにをしても楽しめないというこの症状は、専門用語で快感消失(anhedonia)と呼ばれています。
軽症のうつ病では、抑うつ気分が昼よりも夜に強くなったり、ときどき妙に調子のよい日があったりします。うつ病が軽症であれば、ほかの人と一緒にいると気がまぎれますが、刺激がなくなれば、すぐにもとの状態に戻ってしまいます。抑うつ気分にともなって、泣く回数が増えてきよす。ちょっとしたことで、あるいはなんの理由もなしに、泣いてしまうのです。
不安
人が身の危険を感じると、アドレナリン(adrenaline)というホルモンが出ます。アドレナリンは血液を筋肉と脳に集中させて、すばやく考えをめぐらせ、必要とあればその堀から逃げられるように準備させます。このとき人は過敏になり、びくびくし、緊張感に包まれますが、なにも起こらなければ数分間でその感じは消え去ります。うつ病の人では、この不安が数か月にわたって続くのです。
ある人は、朝、不安のうちに目覚めます。これから始まる1日が怖いからです。不安が抑うつ気分を圧倒して、最も強い症状となることもあります。強い不安を感じている人は、イライラして周囲に当たり散らし、自分自身にもほかの人にもやりきれない思いをさせます。
感情の麻痺
重いうつ状態にある人は、感情が完全に失われてしまったような感じがすると訴えることがあります。この症状は、うつ病の人をひどく苦しめます。なにしろ、心が動かないのです。泣くこともできす、自分のなかには一滴の涙も残っていないような気がします。感情がわいてこないと、自分がこの世界の一員ではないような気分になります。パートナーや家族や子供などの身近な人々に対しても距離を感じ、冷淡な気持ちになってしまうことさえあります。
悲観的な思考
うつ病は、ものの考え方にも影響をおよぼします。うつ病になった人は、これまでとはちがった目でものをみるようになり、悪い面ばかりが目についてしまいます。このゆがんだ展望が、患者さんをいっそう憂うつにするのです。
うつ病の人は、悪いことが起こると必要以上に自分を責める反面、自分の功績はがんとして認めようとしません。これまでの人生にあった成功をすべて忘れてしまい、失敗ばかりを鮮明に思い出しては、いびつに膨らませてしまうのです。
小さな欠点にこだわるあまり、全体像がみえなくなることもあります。極端なたとえで言えば、テストで99点をとって合格したのに、好成績で合格したことを無視して、ミスした1点のことばかり考えてしまうのです。
悲観的な考え方をする人は、ものごとの悪い面ばかりをみてしまいます。悲観的な思考には3つの要素があります。
1.否定的な考え(「自分は仕事で失敗ばかりしている」など)
2.理不尽なほど高い理想(「自分が幸せになるには、だれからも愛され、有能だと思われなければならない」など)
3.考え方の誤り、たとえば、
(a)なんでも悪い方向に解釈する
(b)ものごとの悪い面ばかりをみて、良い面を無視する
(c)たった1つの出来事を一般化する
(d)自分とは関係ないことを自分の落ち度だと思い込む
なんでも悪い方向に解釈したり、たった1つの出来事を一般化してしまったりすることもあります。わたしが以前治療したファッションモデルは、道ですれちがった男性が奇妙な表情を浮かべて自分をみたというだけで、自分は醜く、だれからも嫌われていると思い込んでしまっていました。
ものごとの悪い面ばかりみていると、足元が危うくなります。患者さんは苦しみ、自信を失い、目分にはなんの価値もないような気がしてきます。悲観的な考えと自分への疑いと不安でいっぱいになった患者さんは、さらに落ち込んだり不安になったりして、悪循環に陥ります。
症例:Cさんの場合
Cさんは秘書です。彼女の上司は会社から取引先に出かけました。この時間に出たのでは、予定していた電車には乗れないでしょう。彼は出がけに、「君が作成した報告書を少し手直しさせてもらったから、タイプしなおしてくれるかい?」と言い残していきました。Cさんはがっかりして、目分は失敗ばかりしていると思いました。報告書を直さなければならないのは、自分の仕事が十分ではなかったからだと思ったのです。彼女は、「人生を楽しみたいなら、仕事は完璧にこなさなければならない」という理不尽なほど高い理想をもっていたので、憂うつな気分になりました。
Cさんは本当は有能な人なのですが、自分ではそう思っていませんでした。彼女は、大きな成功のことは無視して、小さな失敗のことばかり考えてしまうのです。つい最近、会社から高い評価を受けて給料があがったばかりだということなど、思い出しもしませんでした。上司が優柔不断な人で、自分が作成した報告書をいつも手直ししていることも忘れていました。Cさんは小さな失敗のことばかりを考え、たった1つの出来事を一般化してしまいました。これが彼女をさらに落ち込ませました。
報告書をタイプしているCさんの頭に、上司が電車に乗り遅れたのは、自分の報告書を手直ししていたからではないのだろうかという考えが浮かんできました。「取引がうまく行かなかったら、すべてわたしの責任なのだわ!JCさんは、自分のせいではないことで自分を責め、いっそう憂うつになりました。
集中力や記憶力の低下
心配事や悲観的な考えで頭がいっぱいになっていると、ほかのことが考えられなくなってきます。こんなときには集中力が低下して、問題を起こしてしまうことかあります。ものをおばえるには集中力が必要ですから、集中力の低下と記憶力の低下が同時に起きても不思議はありません。集中力の低下は、決断力の低下や不注意にもつながるので、患者さんは混乱し、当惑します。これらの症状は、認知症(dementia)に間違われるほど深刻になることもあります。
妄想や幻覚
妄想
ひどく落ち込んでいるときには、思考がゆがんで、現実を正しく把握できなくなることがあります。心が自分を欺き始めれば、「このまま発狂するのだろうか?」と怖くなることもあるでしょう。けれども大丈夫。今はひどく落ち込んでいても、治療すればよくなるのです。重症のうつ病の患者さんでは、妄想(delusion)がみられることがあります。これはつらい症状ですが、幸い、まれです。
妄想とは、人がどんなに言い聞かせても訂正することができない、間違った確信のことです。うつ病の人の妄想は、抑うつ気分から生じてきて、それをさらに強めます。わたしが治療したJさんは、自分は警察に自苦しなければならないと思い込んでいました。5年前にス一パーに行ったときに、リンゴ1個の代金を支払うのを忘れてしまったからだと言うのです。彼は、警察が自分を捜していて、逃れるすべはないと信じていました。また、目分は家族の恥であり、価値のない人間であるとも思い込んでい
ました。家族はJさんに「あなたは悪人ではない」、「だれにでも失敗はある」、「リンゴ1個の代金なんて、だれも気にしない」などと言い聞かせましたが、彼を納得させることはできませんでした。
「自分は世界一邪悪な人間だ」、「自分は悪人だから、みんなが厄介払いしたがっている」、「自分は一文無しだ」、「自分は死にかけている」、「自分はすでに死んでいる」など、人間の心の数だけ妄想の種類があります。ただ、これらはいずれも抑うつ気分と悲観的な思考を反映しているのです。
幻覚
妄想が間違った確信であるのに対して、幻覚(hallucination)は、現実にはないものを現実として知覚することを言います。一般的には、音が聞こえます(幻聴)。重症のうつ病の患者さんは、ほかにだれもいないところで声を聞きます。その声は、室内にいる人が自分に話しかけているようで、おどろくほどリアルに感じられます。声は患者さんを批判したり、「お前は悪人だ」と決めつけたりして、抑うつ気分を悪化させます。人によっては、存在しないものの姿がみえたり(幻視)、匂いがしたり(幻臭)することもあり、それらは現実よりもリアルに感じられます。
自殺衝動
どん底まで落ち込んでいる人の目には、過去は間違いだらけでどうしようもなく、現在は悲惨で、未来は恐ろしいものにみえます。そのため、「生きていてもどうしようもない。自分がいないほうがみんなも楽になるのだから、自分は死ぬべきなのだ」と思い込んでしまう人もいます。
うつ病の人の多くが、一度は自殺を考えます。実際に自殺を計画する人は少ないのですが、夜、床につくたびに、「このまま目覚めなければ、苦しい人生から解放されるのに」と思っている人は少なくありません。
ほとんどの人は、自殺という発想の極端さ、家族への配慮、宗教上の理由などから、自殺を思いとどまります。ここで、「自分は臆病者だから目殺できないのだ」と考えてしまう人は、恥の意識のために、いっそう落ち込んでしまいます。
自殺を考えている人は、実際に自殺してしまうおそれがあります。そんなときには、すぐに助けを求めましょう。かかりつけ医や救急外来を受診するか、自殺予防の電話相談サービスに電話をかけるようにしましょう。うつ病は治療できるのです。
身体症状
うつ病は、いくつかの身体症状を引き起こすことがあります。
うつ病の人はしばしば、こんなにだるく、こんなに気分が悪く、こんなに痛みがあるのは、体に病気があるからにちがいないと考えます。
睡眠障害
うつ病の人には睡眠障害がみられることが多く、ときには、これが疲労感の原因となることもあります。中等症または重症のうつ病の患者さんでは、朝、ふつうより何時間も早く目覚めてしまい、それから眠れなくなってしまうことがあります。また、うつ病の人はみな、心配事のせいで寝つきが悪く、やっと眠れても、一晩に何度も目が覚めてしまいます。
精神運動制止
うつ病の人は、自分のことを故障した機械のように感じることがあります。常に疲労感があり、毎日の仕事をこなすのがむすかしくなり、あらゆることに努力を要し、効率が悪くなります。話し方はゆっくりになり、声には抑揚がなく、動作まで遅くなります。これを専門用語で精神運動制止(psychomotor retardation)と呼びます。
体の機能が遅くなったり、止まってしまったりすることもあります。口のなかが乾燥したり、便秘になったりするほか、女性の場合は、月経がとまったり、不規則になったりします。
食欲不振
うつ病の人は、体重が激減することがあります。食べ物をみても食欲がわかす、食べても昧がなく、空腹さえ感じないからです。
重症のうつ病の患者さんには飲食を完全にしなくなってしまう人もいますが、非常にまれです。
ふつうとは逆の身体症状
うつ病の人はふつう、不眠、食欲不振、体重減少などの身体症状を示しますが、その逆にふだんより長く眠り(過眠)、食欲が冗進し、体重が増加する人もいます。気がふさぎ、このような身体症状がある人は、医師に相談しましょう。
その他の身体症状
うつ病は、さまざまな身体症状を引き起こします。一般的なのは痛みや圧迫感で、頭、顔、腰、胸、胃腸などに多く症状が出ます。うつ病の人は、しばしば胸の痛みを訴えて救急外来を訪れます。本人は心臓がおかしいのではないかと心配しますが、心臓にはなんの異常もありません。胸の痛みは現実ですが、その原因はうつ病にあるのです。
性欲減退
うつ病の人の多くは、性交をしなくなります。これには多くの理由があります。「感情が麻抑しているときに、体で愛情表現を?
する気になどなれない」と言う人もいれば、自分を否定する考えにとらわれて、リラックスできなくなっている人もいます。こうした精神的な問題が、身体的な問題を引き起こします。男性は勃起せす、女性は腔がうるおわす、性交に苦痛を感じます。うつ病の人の多くは、「理由はわからないが、性交をしたいと思わない」と言います。
「ほほえみ」うつ病
うつ病の人のすべてに抑うつ気分がみられるわけではなく、なかには、こうした気分をまったく訴えない人もいます。こういう人は、頭痛などの痛みや疲労感を訴えてかかりつけ医のもとを訪れます。医師は患者さんの体を診察し、検査をしますが、身体症状の原因はみつかりません。そこで、これらがうつ病と関連した身体症状であることに着目して抗うつ薬(antidepressant)を処方してみると、身体症状が見事になくなるのです。このようなうつ病は、「ほほえみ」うつ病(smilingl depression)と呼
ばれます。こういう人は、無意識のうちに自分を欺いており、抑うつ気分を自覚できないのかもしれません。
なにが一連の症状を引き起こしているの?
神経細胞の間の情報伝達
基本的に、脳は電話線の集合体のようなもので、脳内や、体のほかの部位との間で情報をやりとりしています。情報には、電気信号として伝えられるものと、神経伝達物質という化学物質のやりとりによって伝えられるものがあります。
神経伝達物質の欠乏
うつ病の一連の症状は、脳内のある種の化学物質が不足することで起きている可能性があります。このことを理解するには、脳のはたらきかたをみておく必要があります。脳は約1千億個の神経細胞(nerve cell, ニューロン(neUron)とも言います)からできています。ちょっとした動作をするにも、なにかをしようと考えるだけでも、数百個の神経細胞が協力してはたらく必要があります。そのためには、神経細胞の間で情報をやりとりしなければなりません。ここで利用されるのが、神経伝達物質
(neurotransmitter)という化学物質です。
2つの神経細胞が接合する部分はシナプス(synapse)と呼ばれており、シナプス間隙(synaptic cleft)と呼ばれる狭い隙間があります。ある神経細胞がつぎの神経細胞に情報を伝える際には、シナプス間隙に神経伝達物質を放出します。これがつぎの神経細胞の受容体部位(「eceptorsite)に結合することで、情報が伝わるのです。
研究により、うつ病の人では、ドパミン(dopamine)、セロトニン(serotonin)、ノルアドレナリン(noradrenaline)という3種類の重要な神経伝達物質が不足していることがわかりました。シナプス間隙での神経伝達物質の濃度が低いと、脳内の情報伝達がうまく行かなくなり、これがうつ病の一連の症状を引き起こしている可能性があります。
神経伝達物質の不足がどうして起こるのかはわかっていません。科学者はまだ、‘神経伝達物質の不足が抑うつ気分を引き起こすのか、‘抑うつ気分が神経伝達物質の不足を引き起こすのか、を確認できていないのです。ひょっとすると、ストレスが神経伝達物質の量を低下させ、これがうつ病につながっているのかもしれません。抗うつ薬は、これらの神経伝達物質を増やす方向に作用します。
ホルモンの役割
ホルモン(hormone)は、うつ病の発症に重要な役割を果たしている可能性があります。女性ホルモンとうつ病との関係についてはあとで説明するので、ここではストレスホルモンについて説明します。うつ病は、ストレス体験と密接に関係しています。
ストレスホルモン
人がストレスにさらされると、体は複雑なしくみにより数種類のホルモンを放出します。最初に、脳のある部位が副腎皮質刺激ホルモン放出因子(corticotrophin-releasing factor)というホルモンを放出し、これが脳の別の部位から副腎皮質刺激ホルモン(adrenocorticotrophic hormone : ACTH)を放出させます。 ACTHは血流にのって腹部に達し、腎臓の上にのっている副腎(adrenal gland)という1対の小さな分泌腺からコルチゾル(cortisol)を放出させます。ふつうは、ストレス源がなくなればホルモン濃度はふだんの値まで下がりますが、うつ病の人ではこのシステムが異常に活性化しており、コルチゾルの濃度変化が正常とは異なるパターンを示します。体内のコルチゾルの濃度変化を測定してうつ病かどうかを判定する検査が開発されましたが、感度はあまり高くなく、10人の患者さんのうち3人程度しかみつけることができません。いちばん正確に判定できるのは、身体症状を呈する重症のうつ病の患者さんです。
神経細胞の死と新生
脳の研究が進むにつれて、うつ病の人の脳で起きている変化の様子がしだいに明らかになってきました。
たとえば、ストレスや抑うつ気分は、ホルモンや神経伝達物質の濃度に影響をおよぼすだけでなく、神経細胞の死と新生のスピードを一時的に変化させることで、脳の構造にも微妙に影響をおよぽしていることがわかりました。うつ病にかかっている時期には、脳のある小さな領域が萎縮しているようにみえ、血流にも変化が起きています。最近の研究からは、ある種の抗うつ薬に神経細胞の死をふせぐ作用があることが明らかになりましたが、抗うつ薬の作用にこの効果がどれほど寄与しているのかはわかっていません。
キーポイント
・うつ病には、精神症状と身体症状の両方があります。
・症状には個人差があります。
・自殺を考えている人は、実際に自殺してしまう危険があります。すぐに助けを求めましょう。
うつ病の原因
なぜ今、自分が?
うつ病の患者さんが医師に投げかける質問のなかで最も多いのは、「なぜ自分が?」と「なぜ今?」の2つです。
愛する人の死、失業、体の病気など、うつ病の原因がはっきりしている場合もありますが、そうでないこともめすらしくありません。愛する人と死別したり、職を失ったり、病気をしたりしてもうつ病にならない人がいるという事実が、さらに状況を複雑にします。人間には、強いところも、弱いところもあります。ほかの人よりもうつ病にかかりやすい人がいるのはたしかですが、条件さえ揃えば、だれもがうつ病にかかるのです。
人がうつ病にかかるしくみが解明されるまでには、さらなる研究が必要です。うつ病の原因は1つではないことが多く、うつ病の原因となるような問題を抱えていたとしても、必ずしも発症するわけではありません。
うつ病の素因
遺伝子
遺伝子(gene)は、生物の特徴を親から子へと伝える暗号です。
遺伝子はうつ病の素因として重要ですが、うつ病にかかわる遺伝子の数が多いため、それぞれが厳密にどのようなはたらきをしているのかはわかっていません。ほとんどの種類のうつ病は、単純に遺伝するとは言えません。
両親や兄弟姉妹にうつ病にかかった人がいたとしても、確実にうつ病になるとは言えませんが、うつ病にかかる可能性は高くなります。最も可能性が高いのは、一郎性双生児の兄弟姉妹がうつ病にかかっている場合です。
うつ病の種類によって遺伝子の影響の大きさが違ってくるので、この可能性を数字としてあらわすことは困難です。遺伝子の影響の大きさは、軽症のうつ病よりも重症のうつ病で強く、高齢で発症するうつ病よりも若年で発症するうつ病で強いことがわかっています。遺伝子が最も重要な役割を果たしているのは、高揚した気分が続く時期と抑うつ気分が続く時期が交互にみられる双極性障害(bipolardisorder)[蹊うつ病(manic-depressive illness)とも言います]という病気ですが、この病気にかかる
人は多くはありません。
家族のなかにうつ病にかかった人がいたとしても、ふつうは、発症のきっかけとなるストレスを与える出来事がなければうつ病にはなりません。
パーソナリティ
うつ病の素因となるパーソナリティというものはありません。ただし、几帳面で、こだわりが強く、真面目な人や、感情を表に出さない人や、不安になりやすい人は、うつ病にかかりやすいと言われています。
また、高揚した気分が続く時期と抑うつ気分が続く時期が交互に訪れる人は、噪うつ病になる可能性が高いと言われています。けれども、うつ病にかかった人の圧倒的多数は、こうしたパーソナリティのどれにも当てはまりません。
家庭環境
幼少時に親を失う
幼い頃に母親を失った人は、うつ病にかかりやすいことがわかっています。このような喪失体験は、幼児の心に傷をつけて、うつ病にかかりやすくする可能性がある反面、心の回復力を高めて、立ちなおりを早くする可能性もあります。重要なのは、親を失うこと自体ではなく、その心理的・社会的・経済的な影響なのかもしれません。
親との関係
心理学者は、「要求が多く、批判的な両親のもとで、成功は当然とされ、失敗に対して厳しく育てられた子どもは、将来、うつ病にかかりやすくなる」と主張しています。精神療法の専門家からは、「幼い頃に母親から愛情を注がれなかった人は、うつ病にかかりやすい」という意見も出ていますが、科学的な裏づけはありません。
子供時代に受けた身体的虐待や性的虐待
子供時代に身体的虐待や性的虐待を受けたことのある人は、将来、重症のうつ病にかかりやすいとされています。研究により、精神科医を受診した人の半数までもが、思春期や子供時代になんらかの形で性的な目でみられて不快な思いをした経験をもつことがわかっています。
一般に、虐待を受けた人は、そのことをおぼえているものですが、なかには、うつ病にかかって精神療法を受けたときにはじめて子供時代の虐待を思い出す人もいます。この記憶が常に本物であるかどうかをめぐっては、専門家の間で論争があります。ある専門家は、病気の原因が性的虐待にあると思い込んだセラピストが、精神療法の際に実際にはなかったことを暗示によって「思い出させて」しまうこともまれにあると考えています。この現象は、虚偽記憶症候群(false memory syndrome)と呼ばれて
います。
うつ病に影響をおよぼす因子
うつ病にかかるかどうかには、長期的な素因と一時的な問題の両方がかかわっています。
うつ病の素因 うつ病のきっかけ
・遺伝子 ・ストレス
・パーソナリティ ・体の病気
・家庭環境 ・処方薬
・性別 ・日照不足
・思考パターン
・無力な立場
・ストレスとライフイベント
・体の病気
・日照不足
性別
うつ病と診断される女性の数は、男性の2倍にのぼります。とはいえ、女性のほうが男性よりもうつ病になりやすいとは言い切れません。女性は男性よりも抑うつ気分を自覚しやすいのかもしれませんし、女性の抑うつ気分は、男性のそれよりも医師の目につきやすいのかもしれないからです。ただし、女性がうつ病のきっかけとなるような社会的圧力(幼い子供と1日中家にいなければならないなど)にさらされやすいことはたしかです。また、女性には月経周期にともなうホルモン変化のほか、妊娠・出産や閉経に関連したホルモン変化があるため、憂うつになったり、うつ病になったりしやすいとも言えます。
思考パターン
1967年に米国の精神科医アーロン・ベック(AaronBeck)が、うつ病の患者さんによくみられる思考パターンを分析し、このような考え方がその人をうつ病にかかりやすくさせている可能性があると指摘しました。彼の主張をまとめると、「自分について否定的な考え方をする人は、うつ病にかかりやすい」ということになります。
多くの人は、自分の失敗を軽視し、成功を最大限に喜ぶ傾向があります。このように楽天的な考え方をしていれば、なにがあってもそこそこ元気でいられます。たとえば、セルフサービスの混雑した飲み屋でビールを買い、席に戻る途中で少しこばしてしまったら、「店員がつぎすぎるからだ」とか、「だれかに押された
からだ」などと文句を言って、自分のせいだとは思わないでしょう。反対にビールをこばさすに席に戻れたら、「店員がじょうすについでくれたおかげた」とか、「自分にぶつからないようにみんなが気をつかってくれたおかげた」などとは考えず、うまく運べたと得意に思うことでしょう。
ベックの主張によれば、うつ病にかかりやすい人は、これとは逆の考え方をします。彼らは自分の成功を過小評価し、失敗を悔やみ続けます。うつ病の患者さんがこのような思考パターンを示すことはわかっていますが、うつ病になる前からこのような考え方をしていたかどうかは、十分には確認されていません。ベックの説は、うつ病の新しい治療法のなかで最も勢いのある「認知療法(cognitive therapy)」を生み出すきっかけになった点で重要です。
無力な立場
一部の専門家は、長期にわたって無力な立場にあった人や、逃げようのない状況に置かれていた人は、うつ病にかかりやすいと考えています。
この説は、ある心理学者が犬について行った実験にもとづいています。その実験は、これといった理由もなく、犬たちに軽い罰を与えるというものでした。罰を受ける理由がないので、犬たちには罰を逃れるすべがありません。彼らはやがて、すっかりおびえてしまい、罰を受けてもじっと耐えるだけで、食欲もなくなってしまいました。彼はこれを、「学習性無力感(learned helplessness)」と呼びました。
専門家のなかには、「犬の行動を人間の行動と同視することはできす、そもそも、犬がうつ病になるかどうかもわからない」と批判する人もいます。けれども、寝たきりの人や車椅子生活の人で、生活全般を看護師に依存している人は、うつ病になりやすいことがわかっています。
長期にわたり能力の低下をきたす病気
病気による不快感、身体障害、依存状態、生活不安などに苦しんでいる人は、うつ病にかかりやすいようです。ほとんどの人は、自立した生活をし、人に会いたいと思っています。長期にわたり重い病気に舌しんでいる人がうつ病になりやすいのは、無力な立場に置かれているせいかもしれません。あるいは、うつ病に打ち勝つためのエネルギーが、長期の闘病生活のために失われてしまったのかもしれません。経済的な不安がおよばす影響も重要です。
大きなストレスをもたらすライフイベント
うつ病の素因
・パートナーの死 ・けがや病気
・離婚 ・結婚
・別居 ・失業
・収監 ・夫婦間の調停
・親友の死 ・退職
うつ病のきっかけ
ストレスとライフイベント
ストレスは、突然の出来事として襲いかかってくる場合にも、長期的にじわじわとのしかかってくる場合にも、うつ病のきっかけになります。ライフイベント(一生の間に何度か起こる大きな変化)は大きなストレスをもたらしますが、ライフイベントから半年以内に発症するうつ病の件数は、なにもない時期の6倍にもなります。ストレスは、人をうつ病にかかりやすくしたり、うつ病のきっかけになったりするのです。長年にわたり家庭や結婚生活や仕事にかんする問題に悩んできた人にとっては、パートナーを失うことや失業などのライフイベントが、決定的な打撃となることがあります。長期的な問題は、一時的な問題の影響を大きくするのです。うつ病のきっかけは、失業、愛する人の死、離婚によるパートナーとの別れなどの喪失体験の形をとるのがふつうです。このときには、もっと微妙なもの(たとえば自信)が失われているとも言えます。とはいえ、喪失体験がうつ病のきっかけとなるのは10回に1回程度であり、残りの9回はなんの悪影響もおよばしません。ストレスに対する心理的反応は十人十色で、どのように反応するかを予測することはできないのです。
体の病気
体の病気がうつ病のきっかけになることがあります。重い病気にかかってしまったというショックが自信を失わせ、自己評価を低下させ、うつ病を引き起こすのです。けれども、その心理は複雑です。たとえば、心臓発作のあとにうつ病にかかる人が少なくないことが知られていますが、その理由としては、死の危険にさらされたことで死を意識するようになったことのほかに、突然、体が不自由になったことによるストレスも考えられるのです。体の病気は、高齢者のうつ病の原因のなかで、代表的なものになっています。
ある種の病気は、体におよばす影響によりうつ病を引き起こします。パーキンソン病(Parkinson’s disease)や多発性硬化症(mUltiple sclerosis)にともなって起こるうつ病には、これらの病気が脳におよばす影響も関与していると考えられています。また、ホルモンに影響をおよばす病気もうつ病を引き起こします。
うつ病は、ウイルス性疾患とも関係があります。インフルエンザが大流行したあとは、しばしばうつ病が大発生します。腺熱
(glandularfever)のあとにうつ病になったという人の話を聞いたことがある人も多いでしょう。ウイルス性疾患がどうしてうつ病のきっかけになるのかは、明らかではありません。ある説によると、ビタミン不足により体が衰弱するからではないかとされています。
うつ病と関連のある病気
・先端巨大症(acromegaly)
・アジソン病(Addison’s disease)
・アルコール中毒(alcoholism):アルコールは脳に直接影響をおよぼすだけでなく、人生まで台無しにします。
・脳腫瘍(brainabscess)
・脳出血(brainhemorrhage)
・脳腫瘍(braintumor)
・慢性疲労症候群(chronic fatigue syndrome)
・クッシング病(Cushinぼs disease)
・認知症(dementia)
・糖尿病(diabetes)
・脳炎(encephalitis)
・複数回の頭部外傷(headinjuries)
・心臓の問題(heartproblem)
・上皮小体(副甲状腺)機能六進症(hyperparathyroidism)
・下垂体機能低下症(hypopituitarism)
・甲状腺機能低下症(hypotyroidism)
・多発性硬化症(multiple sclerosis)
・パーキンソン病(ParkinsonIS disease)
・重症の頭部外傷(severe head injury)
・結核(tuberculosis)、髄膜炎(meningitis)
・ビタミン欠乏症(vitamin deficiency)
・ウイルス性疾患(vira目11ness):インフルエンザ(influenza)や腺熱(glandularfever)など。
・体液バランスの異常(waterbalance problemy体液の低塩分、高カルシウム、低カルシウムなど。
処方薬
処方薬のなかには、うつ病を引き起こすおそれがあるものもあります。けれども、自分が使っている薬がリストにあったとしても、医師に相談もせすに服用をやめたり
してはいけません。こうした薬も常にうつ病を引き起こすというわけではなく、うつ病になった場合には、別の原因がある可能性もあるからです。場合によっては、薬の服用をやめることで、うつ病よりも危険な事態を招くことがあります。
非処方薬がうつ病を引き起こすこともあります。アルコールは脳に直接影響をおよばして、抑うつ気分を生じさせることがあります。アルコール中毒も、人生を台無しにして、うつ病を引き起こします。ドラッグも同様に、脳に直接影響をおよばすほか、生活面への悪影響をつうじて間接的にうつ病を引き起こします。
うつ病の原因となる可能性のある薬
・抗てんかん薬(anti-epilepsy tablets)
・降圧薬(antihypertensivedrugs):高血圧の治療に用いられます。
・メフロキン(menoquine)[商品名メファキンL抗マラリア薬(anti-malarial drug)
・抗パーキンソン病薬(anti-parkinsoniandrugs)
・がんの治療に用いられる、ある種の化学療法薬(chemotherapy drugs)
・経口避妊薬:混合型経□避妊薬[combined oralcontraceptive:
COC、いわゆるピル(pill)]のほか、プロゲストーゲン単剤ピル[progestogen-onlypill:POP、いわゆるミニピル]も、うつ病を引き起こす可能性かおることが報告されています。
・ジギタリス(digitalis):心臓の薬
・利尿薬(diUretics):心臓と血圧の薬
・インターフェロンα(interferon-α):C型肝炎(hepatitis C)の治療に用いられます。
・抗精神病薬(majortranquilizers)
・ステロイド薬(steroids):喘息や関節炎などの治療に用いられます。
日照不足
多くの人は、曇りの日よりも晴れの日、冬よりも夏のほうが気分よく感じます。一部の人では、これが極端な形であらわれます。
夏の間は元気なのですが、冬になって日照時間が短くなると、抑うつ気分に悩まされるようになるのです。これは、季節性感情障害(seasonal affective disorder:SAD)と呼ばれる病気です。
SADは、脳の松束体(pineal gland)から分泌されるメラトニン(melaton㈹というホルモンの濃度に関係があるようです。
メラトニンは光量の変化に応じて分泌され、暗いときに分泌量が増えるため、光線療法(light therapy)によりSADの症状が軽くなることかあります。特殊な照明器具の光を1日に4時間ずつ浴びることで、1週間以内に抑うつ気分がなくなります。